永話§今さらながら我が人生② [私事]
[承前]
1970年……北関東の県立高校は別学がデフォルトである。50人×7クラスが全員男という、個人的には不本意かつ残念な学園生活だが、他に選択肢などなかったのでしかたがない。
この頃、既に東京の大学に進み、東京で活計(たつき)の道を模索しようと決めていた。そのためには受験勉強に邁進する必要があったのだが、いきなり挫折した。数学がわからなくなり“対数”で絶望的に落ちこぼれた。最初は簡単な計算式でわかっていたのが、何やら込み入ってきた時点で放り出してしまったのだ。このあたり、堪え性ゼロである。
実家の経済を考えれば国立大学に進まなくてはならなかったが、高校1年で進路変更を考えなければならなかった。
1973年……高校を卒業したものの、学業は低空飛行が続いた結果、志望大学は全滅となり、予備校に入るため上京し、三畳間の下宿で独り暮らしを始めた。念願の東京!
1974年……一浪して辛うじて引っ掛かったのは、中の上あたりに位置していると思しき某私立大学文学部。もちろん仕送りだけでは足りるはずもなく、アルバイトにも力を入れることになって、その最初が尾瀬の山小屋で働くことだったが、夏休み中働いて手にした丸々10万円がどれほどの助けになってくれたことか。
1977年……この年も10月の三連休まで尾瀬でのアルバイトを続けつつ、就活にも精を出したが、10月に始まった会社訪問、就職試験は連戦連敗で、卒業後の進路がなかなか決まらずにいたが、最後の最後、ダメ元でとやけっぱちで受けた会社から内定の通知をもらった。それが12月27日のことで、いわば逆転満塁ホームラン。そうして人生の中盤戦が始まることになるのである。
[続く]
《私事のトピックス一覧》
1970年……北関東の県立高校は別学がデフォルトである。50人×7クラスが全員男という、個人的には不本意かつ残念な学園生活だが、他に選択肢などなかったのでしかたがない。
この頃、既に東京の大学に進み、東京で活計(たつき)の道を模索しようと決めていた。そのためには受験勉強に邁進する必要があったのだが、いきなり挫折した。数学がわからなくなり“対数”で絶望的に落ちこぼれた。最初は簡単な計算式でわかっていたのが、何やら込み入ってきた時点で放り出してしまったのだ。このあたり、堪え性ゼロである。
実家の経済を考えれば国立大学に進まなくてはならなかったが、高校1年で進路変更を考えなければならなかった。
1973年……高校を卒業したものの、学業は低空飛行が続いた結果、志望大学は全滅となり、予備校に入るため上京し、三畳間の下宿で独り暮らしを始めた。念願の東京!
1974年……一浪して辛うじて引っ掛かったのは、中の上あたりに位置していると思しき某私立大学文学部。もちろん仕送りだけでは足りるはずもなく、アルバイトにも力を入れることになって、その最初が尾瀬の山小屋で働くことだったが、夏休み中働いて手にした丸々10万円がどれほどの助けになってくれたことか。
1977年……この年も10月の三連休まで尾瀬でのアルバイトを続けつつ、就活にも精を出したが、10月に始まった会社訪問、就職試験は連戦連敗で、卒業後の進路がなかなか決まらずにいたが、最後の最後、ダメ元でとやけっぱちで受けた会社から内定の通知をもらった。それが12月27日のことで、いわば逆転満塁ホームラン。そうして人生の中盤戦が始まることになるのである。
[続く]
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鍵話§ピアノ―マイカテゴリー―[中] [ピアノ]
[承前]
長いこと、ただ漠然と聴いていたピアノだが、それまでの自分の不徳を一蹴するようなことがあった。
1992年10月、ウィーンのムジークフェラインザールで聴いたアルフレート・ブレンデルのベートーヴェン・ピアノソナタ・チクルスの第一回がそれである。作品番号31の1-3(16番~18番)と作品番号101(28番)と、聴いたことのない曲ばかり並べられていたが、これが“眼から鱗”の演奏で、ブレンデルの音楽性のゆえかどうか、見事に納得させられたのだ。
以来、ブレンデルが自分自身にとってのピアノ音楽の規範になったのだ。たぶん一番に聴いた回数の多いピアニストではないだろうか。おそらく7回くらいは聴いていて、ブレンデルなかりせば、我がクラシックの中の、ピアノ体験は間違いなく寂しいものになっていたことだろう。まさに恩人である。
ブレンデル以外に複数回聴いたピアニストを挙げておく……マウリツィオ・ポリーニ、内田光子、アンドラーシュ・シフといった面々だが、個人的にはブレンデルから大きな恩を受けたと思っているのだ。
[続く]
《クラシックのトピックス一覧》
長いこと、ただ漠然と聴いていたピアノだが、それまでの自分の不徳を一蹴するようなことがあった。
1992年10月、ウィーンのムジークフェラインザールで聴いたアルフレート・ブレンデルのベートーヴェン・ピアノソナタ・チクルスの第一回がそれである。作品番号31の1-3(16番~18番)と作品番号101(28番)と、聴いたことのない曲ばかり並べられていたが、これが“眼から鱗”の演奏で、ブレンデルの音楽性のゆえかどうか、見事に納得させられたのだ。
以来、ブレンデルが自分自身にとってのピアノ音楽の規範になったのだ。たぶん一番に聴いた回数の多いピアニストではないだろうか。おそらく7回くらいは聴いていて、ブレンデルなかりせば、我がクラシックの中の、ピアノ体験は間違いなく寂しいものになっていたことだろう。まさに恩人である。
ブレンデル以外に複数回聴いたピアニストを挙げておく……マウリツィオ・ポリーニ、内田光子、アンドラーシュ・シフといった面々だが、個人的にはブレンデルから大きな恩を受けたと思っているのだ。
[続く]
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