途話§永遠のサグラダファミリア(ぇ [東京]
新宿駅南口のバスターミナルがようやく完成したと思ったら、今度は西口の再開発が始まっていて、もう一年が過ぎていた。
南口再開発の最中の時にも“いつになったら完成するんだ?”と思っていていつしか誰からともなく“新宿サグラダファミリア”と呼ばれるようになっていたのだ。
そうして今、サグラダファミリアは西口に移動して絶賛工事中である。京王線から丸の内線に乗り換えようと、新宿西口広場を歩くと、あちこちで通路の流れがくるくる変わっている。長年歩き続けているおかげで、通路レイアウトが変わっても頭の中に刻み込まれたルートをたどって目的地に行ける。
それにしても、歩行者が行き交うその裏で再開発の大工事が行われているというのもまた今時ということか。
そんな“サグラダファミリア”でも動いているのであればまだいいほうで、閉館から一年が経過した隼町の国立劇場は、二度の入札が不調に終わって、今だにあの校倉造デザインの建物が何の手もつけられないまま放置されている……これこそまさに文化不在&蔑ろでなくて何なのかと呆れるばかりだ。
こんなことは思いたくもないと思いつつ、眼に見えるところでも日本の劣化が顕著に忍び寄ってきているとしか思えない。
《東京のトピックス一覧》
南口再開発の最中の時にも“いつになったら完成するんだ?”と思っていていつしか誰からともなく“新宿サグラダファミリア”と呼ばれるようになっていたのだ。
そうして今、サグラダファミリアは西口に移動して絶賛工事中である。京王線から丸の内線に乗り換えようと、新宿西口広場を歩くと、あちこちで通路の流れがくるくる変わっている。長年歩き続けているおかげで、通路レイアウトが変わっても頭の中に刻み込まれたルートをたどって目的地に行ける。
それにしても、歩行者が行き交うその裏で再開発の大工事が行われているというのもまた今時ということか。
そんな“サグラダファミリア”でも動いているのであればまだいいほうで、閉館から一年が経過した隼町の国立劇場は、二度の入札が不調に終わって、今だにあの校倉造デザインの建物が何の手もつけられないまま放置されている……これこそまさに文化不在&蔑ろでなくて何なのかと呆れるばかりだ。
こんなことは思いたくもないと思いつつ、眼に見えるところでも日本の劣化が顕著に忍び寄ってきているとしか思えない。
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過話§上京五十一年~十六年は一昔~ [東京]
小学校から大学までの就学年数は16年である。大学は現役で入ることができず一浪したので実質17年であるが、まあ16年ということにしておいて……。
『熊谷陣屋』の熊谷次郎直実が「十六年は一昔。夢だ、アァ夢だ」と呟く。彼の呟きは、16歳まで育てた息子の命を差し出してのことなので、比較するような話ではない。
我が16年は、そういうわけで小学校から大学までの16年というだけの話で、大学を卒業して宮仕えを始める時に「ああ、こうして“学びの場”にいるのも終わりか」と、ふと思ったのだ。
16年は長いようでもあり短いようでもあり、そして“学校に行きたくない”といったことを考えることがなかったのは幸いだったが、学校に行くのが楽しくてしかたがなかったというわけでもなかった。
頭の片隅で“たつきの道”だからと思い定めて通過していこうと考えていたようである。
そして今の我が身にとっての十六年前とは、五十代半ばとなって定年退職も視野に入りつつあった勤続30年という区切りの年なのだった。
《東京のトピックス一覧》
『熊谷陣屋』の熊谷次郎直実が「十六年は一昔。夢だ、アァ夢だ」と呟く。彼の呟きは、16歳まで育てた息子の命を差し出してのことなので、比較するような話ではない。
我が16年は、そういうわけで小学校から大学までの16年というだけの話で、大学を卒業して宮仕えを始める時に「ああ、こうして“学びの場”にいるのも終わりか」と、ふと思ったのだ。
16年は長いようでもあり短いようでもあり、そして“学校に行きたくない”といったことを考えることがなかったのは幸いだったが、学校に行くのが楽しくてしかたがなかったというわけでもなかった。
頭の片隅で“たつきの道”だからと思い定めて通過していこうと考えていたようである。
そして今の我が身にとっての十六年前とは、五十代半ばとなって定年退職も視野に入りつつあった勤続30年という区切りの年なのだった。
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過話§上京五十一年~大学生活~ [東京]
一浪を経て無事に大学に潜り込むことができた。第一志望の大学には入れずで、次善の大学に引っかかったのだった。予備校で何度か模擬試験を受け、その結果を見れば第一志望にも滑り込めたはずだったが、それは叶わず……ただし、今でも自分の当時の実力がどれほどのものだったのかわからないでいる。
入学して心したことは、まずもって4年間できちんと卒業しようと考えた。そうして1年次からせっせと単位の取得に努めたが、それは、単位を稼ぎつつ、2年次からアルバイトも並行してやることにした。4年間の夏休みすべては、尾瀬の山小屋で働いていたので、東京でのアルバイトは尾瀬の補完という形で、無理のない程度にやっていたのだ。
文学部としては実学に近い専攻学科ではあったけれど、自分の中でピンとくるような講義は多くはなく、興味あるなしの振れ幅が大きく、まじめに受講した科目とおざなりに流してしまった科目の差は大きいものがあった。
自分的に興味があったのは社会学的な分野で、そうした傾向のゼミはまじめに受けたし、卒業論文もまた今日的であり、社会学的なテーマで臨んだが、より実戦的に深めることができなかったのは大きな心残りである。
そうして4年間の大学生活を終え、学んだ学問とはまったく無関係な職業に就いたのだった。
《東京のトピックス一覧》
入学して心したことは、まずもって4年間できちんと卒業しようと考えた。そうして1年次からせっせと単位の取得に努めたが、それは、単位を稼ぎつつ、2年次からアルバイトも並行してやることにした。4年間の夏休みすべては、尾瀬の山小屋で働いていたので、東京でのアルバイトは尾瀬の補完という形で、無理のない程度にやっていたのだ。
文学部としては実学に近い専攻学科ではあったけれど、自分の中でピンとくるような講義は多くはなく、興味あるなしの振れ幅が大きく、まじめに受講した科目とおざなりに流してしまった科目の差は大きいものがあった。
自分的に興味があったのは社会学的な分野で、そうした傾向のゼミはまじめに受けたし、卒業論文もまた今日的であり、社会学的なテーマで臨んだが、より実戦的に深めることができなかったのは大きな心残りである。
そうして4年間の大学生活を終え、学んだ学問とはまったく無関係な職業に就いたのだった。
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過話§上京五十一年~アパート暮らし~ [東京]
結婚して落ち着くまでの独身期間は、アパート4軒を転々とした。代々木に始まって、成増、荻窪、井草である。
代々木については何度も詳しく書いているので省略。成増は、大学2年から卒業するまでの3年間だった。同じく上京してきた弟と、6畳+4畳にキッチンが付いて、家主さんのお宅の2階を間借りしていた。成増の駅から徒歩10分ほど。地名は赤塚、住んでいる時は知らず、後で知ったことだが、すぐ近くに『怪談乳房榎』の赤塚乳房大神があったのだ。
そうして就職して住んだのが荻窪駅の北、日大二高近くの本天沼の6畳間。悪くはなかったが、仕事を始めたら時間が不規則で平日は銭湯に行けず、出勤前に駅近のサウナを利用する有様に音を上げて、わずか7か月、11月には井草の風呂付きアパートに引っ越してしまった。
賃貸の間借りからアパートへと移り住んだのは、1973年から1982年の10年足らず。
結婚して、今の地域で42年が過ぎた……あっという間とも言えるし、かくも遠くまで来てしまったとも思う。東京のアパート暮らしは“この先、自分がどうなっていくか”何の確信もないままに生きていた時代でもある。
《東京のトピックス一覧》
代々木については何度も詳しく書いているので省略。成増は、大学2年から卒業するまでの3年間だった。同じく上京してきた弟と、6畳+4畳にキッチンが付いて、家主さんのお宅の2階を間借りしていた。成増の駅から徒歩10分ほど。地名は赤塚、住んでいる時は知らず、後で知ったことだが、すぐ近くに『怪談乳房榎』の赤塚乳房大神があったのだ。
そうして就職して住んだのが荻窪駅の北、日大二高近くの本天沼の6畳間。悪くはなかったが、仕事を始めたら時間が不規則で平日は銭湯に行けず、出勤前に駅近のサウナを利用する有様に音を上げて、わずか7か月、11月には井草の風呂付きアパートに引っ越してしまった。
賃貸の間借りからアパートへと移り住んだのは、1973年から1982年の10年足らず。
結婚して、今の地域で42年が過ぎた……あっという間とも言えるし、かくも遠くまで来てしまったとも思う。東京のアパート暮らしは“この先、自分がどうなっていくか”何の確信もないままに生きていた時代でもある。
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暮話§山坂の町~半世紀が過ぎた今~ [東京]
ニュータウンと呼ばれ続けてきた多摩丘陵の我が家のあたりである。入居が始まって半世紀が過ぎた。かつての写真を見ると、新しい建物の周囲がはげ山の如くだったことに驚かされる。それが今は、鬱蒼とした緑の森の海に建物が埋もれて見えるまでになったのだ。げに、半世紀の歳月よではないか。
そんな町の構造は、いくつかの丘陵とその間の谷筋とか存在していて、基本的には、丘陵の上に団地群が建設され、谷筋に鉄道や幹線道路を走らせるという立体的なものである。
団地群を縫って遊歩道が整備され“歩車分離”が実現している。だが、そうはいっても、丘陵の上から谷筋まで上り下りしなくてはならない。入居が始まった半世紀前に三十代、四十代だった初期の住民たちは八十代以上と高齢化が進み、坂や階段がしんどくなってきてしまった。
さらにエレベーターの設置不要な5階建ての団地だらけで、高齢化による懸念が現実として突き付けられているのだ。山坂と階段の合わせ技で、外出もままならなくなってしまった高齢者も少なくはない。
そして、入居したころは盛況だった地域の商店街は活況を失ってしまった。中には新しい試みで商店街を生き返らせたりもしている。そうした試みの源は新しく若い世代の住民たちで、彼らの力を頼ることで少しでもで活性化が進んでくれることを期待する。
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そんな町の構造は、いくつかの丘陵とその間の谷筋とか存在していて、基本的には、丘陵の上に団地群が建設され、谷筋に鉄道や幹線道路を走らせるという立体的なものである。
団地群を縫って遊歩道が整備され“歩車分離”が実現している。だが、そうはいっても、丘陵の上から谷筋まで上り下りしなくてはならない。入居が始まった半世紀前に三十代、四十代だった初期の住民たちは八十代以上と高齢化が進み、坂や階段がしんどくなってきてしまった。
さらにエレベーターの設置不要な5階建ての団地だらけで、高齢化による懸念が現実として突き付けられているのだ。山坂と階段の合わせ技で、外出もままならなくなってしまった高齢者も少なくはない。
そして、入居したころは盛況だった地域の商店街は活況を失ってしまった。中には新しい試みで商店街を生き返らせたりもしている。そうした試みの源は新しく若い世代の住民たちで、彼らの力を頼ることで少しでもで活性化が進んでくれることを期待する。
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過話§上京五十一年~予備校の日々~ [東京]
選択肢に乏しい地方都市の中学生が、一応“進学校”と呼ばれる高校に入りはしたものの、ほどなく落ちこぼれとなって、志望していた大学からはことごとく門前払いをされて、浪人生活を送ることになった。
ずいぶん前から目論んでいた東京脱出が、こんな形ではあるが叶ったわけで窓の外をオレンジ色の中央線が行き来する代々木の三畳間で独り快哉を叫んだとは、以前にも書いている。
かくして浪人生活が始まり、四谷にある予備校の午後部に潜り込んだ。当時まだ国鉄の時代の四ツ谷駅を降りて、新宿通りを新宿方向へ数分歩いた路地裏に予備校はあった。既にその頃から“尻尾まで餡子が入っている”ことを売り物にしていた有名鯛焼き屋の先に校舎があった。
代々木の下宿を出て、駅近くガード下で立ち食い蕎麦を食べ、総武緩行線で四谷に向かう。折しも午前部の浪人たちの下校時……そんな集団中にスラリと背が高く、ミニスカートで何とも目立つ女性が、と思ったら、テレビで人気になりつつあった“檀FM”である。そういえば彼女も浪人生活を始めたと聞いた記憶が微かに。
授業は13時から17時半あたりまで一時間ずつが4コマ、英語の比率が高く、それで点を稼ぐのだという方針だったかどうか、そんな中に“名物講師”と呼ばれる存在が何人かいて、さすがに教え方がうまく、実戦で役立ったのは間違いない。
現代国語の講師に池山廣という、これまた名物講師がレギュラーで教えていて、授業の途中にボソッと「芥川賞候補になったことがありまして。受賞者は……井上靖だった時でした」と、後で調べたら1949年下期のことだった。
そんな多士済々の中で揉まれたからかどうか、一浪の後に、自分的に納得できる大学に合格したのである。
《東京のトピックス一覧》
ずいぶん前から目論んでいた東京脱出が、こんな形ではあるが叶ったわけで窓の外をオレンジ色の中央線が行き来する代々木の三畳間で独り快哉を叫んだとは、以前にも書いている。
かくして浪人生活が始まり、四谷にある予備校の午後部に潜り込んだ。当時まだ国鉄の時代の四ツ谷駅を降りて、新宿通りを新宿方向へ数分歩いた路地裏に予備校はあった。既にその頃から“尻尾まで餡子が入っている”ことを売り物にしていた有名鯛焼き屋の先に校舎があった。
代々木の下宿を出て、駅近くガード下で立ち食い蕎麦を食べ、総武緩行線で四谷に向かう。折しも午前部の浪人たちの下校時……そんな集団中にスラリと背が高く、ミニスカートで何とも目立つ女性が、と思ったら、テレビで人気になりつつあった“檀FM”である。そういえば彼女も浪人生活を始めたと聞いた記憶が微かに。
授業は13時から17時半あたりまで一時間ずつが4コマ、英語の比率が高く、それで点を稼ぐのだという方針だったかどうか、そんな中に“名物講師”と呼ばれる存在が何人かいて、さすがに教え方がうまく、実戦で役立ったのは間違いない。
現代国語の講師に池山廣という、これまた名物講師がレギュラーで教えていて、授業の途中にボソッと「芥川賞候補になったことがありまして。受賞者は……井上靖だった時でした」と、後で調べたら1949年下期のことだった。
そんな多士済々の中で揉まれたからかどうか、一浪の後に、自分的に納得できる大学に合格したのである。
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涯話§なぜ東京に行こうと思ったのか [東京]
去年が上京して五十周年だった。
何の意味もなく、漠然と東京へ東京へと目指すことになったのは、いかなる内的理由があったものかと今さらながら思うのであるが、おそらくは小学校高学年になっていたであろうかつての自分に聞いてみたいものである。
そしてたぶん“東京には何かがある”と、何の確証もなく言い張ったことは間違いない。
結果として我が意志は貫かれて、東京で学び、職を得て、同居人と暮らし、定年を迎え、いずれ遠くないいつかお迎えがやって来る。今、東京に行こうと思い定めた小学生の自分に問うてみたい……君が思い描いていた東京での日々はこういうことだったのか?と。
幼い発想しかなかったにしても、その当時既に、東京にあって地方にはないあれやこれやを敏感に感じとっていたのかもしれないが……。
中央集権の象徴のような東京という都会のメリットを自分なりに享受した。特に文化面においては、その多くを受け留めることができたようだ。実家のあった町を“捨てた”結果として、地方都市の衰退を招くことになったのは本当に申し訳ないことだと思う。
だが、自分で何かを創造することもできず、何物も生み出すことのできない身には、こんな他力本願の生き方しかできなかったのである。
《東京のトピックス一覧》
何の意味もなく、漠然と東京へ東京へと目指すことになったのは、いかなる内的理由があったものかと今さらながら思うのであるが、おそらくは小学校高学年になっていたであろうかつての自分に聞いてみたいものである。
そしてたぶん“東京には何かがある”と、何の確証もなく言い張ったことは間違いない。
結果として我が意志は貫かれて、東京で学び、職を得て、同居人と暮らし、定年を迎え、いずれ遠くないいつかお迎えがやって来る。今、東京に行こうと思い定めた小学生の自分に問うてみたい……君が思い描いていた東京での日々はこういうことだったのか?と。
幼い発想しかなかったにしても、その当時既に、東京にあって地方にはないあれやこれやを敏感に感じとっていたのかもしれないが……。
中央集権の象徴のような東京という都会のメリットを自分なりに享受した。特に文化面においては、その多くを受け留めることができたようだ。実家のあった町を“捨てた”結果として、地方都市の衰退を招くことになったのは本当に申し訳ないことだと思う。
だが、自分で何かを創造することもできず、何物も生み出すことのできない身には、こんな他力本願の生き方しかできなかったのである。
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過話§上京五十年~下宿で自炊~ [東京]
予備校から大学と5年間の下宿暮らしの間は自炊で通していた。親からの仕送りが潤沢ではなく、当たり前のように自炊をするものだと思っていたので苦になることはなかった。
最初の2年は一人暮らし、3年目から弟と二人での下宿生活である。記憶は曖昧だが、どうも朝食を抜いていた節があり、昼は学食で食べていたので、夕食だけ用意すればよかったのだ。
炊飯器でご飯を炊き、おかずを一品と味噌汁……簡素なものである。ご飯は二人で二合……まだまだ食欲があったから、それくらいは事もなく平らげていたのである。
おかずの材料は、学校帰りに最寄駅のスーパーマーケットで、値札をにらみながら、1円でも安い食材をと頭を悩ませては買い揃えていた。作る料理も若い男そのもので、肉野菜炒めであるとか、具だくさんの豚汁を鍋一杯とか、とにかくご飯を食べられればそれでよかったのだ。
その程度の自炊だったので、料理の腕がどうだとか、そんな状況ではなく、食材をうまいこと刻む包丁さばきくらいは何とか会得できたのである。
その後、大学を卒業して就職……再び一人暮らしを始めたが、激務の日々に自炊をする余裕などはないままの日々になってしまった。
《東京のトピックス一覧》
最初の2年は一人暮らし、3年目から弟と二人での下宿生活である。記憶は曖昧だが、どうも朝食を抜いていた節があり、昼は学食で食べていたので、夕食だけ用意すればよかったのだ。
炊飯器でご飯を炊き、おかずを一品と味噌汁……簡素なものである。ご飯は二人で二合……まだまだ食欲があったから、それくらいは事もなく平らげていたのである。
おかずの材料は、学校帰りに最寄駅のスーパーマーケットで、値札をにらみながら、1円でも安い食材をと頭を悩ませては買い揃えていた。作る料理も若い男そのもので、肉野菜炒めであるとか、具だくさんの豚汁を鍋一杯とか、とにかくご飯を食べられればそれでよかったのだ。
その程度の自炊だったので、料理の腕がどうだとか、そんな状況ではなく、食材をうまいこと刻む包丁さばきくらいは何とか会得できたのである。
その後、大学を卒業して就職……再び一人暮らしを始めたが、激務の日々に自炊をする余裕などはないままの日々になってしまった。
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過話§上京五十年~今年は五十一年~ [東京]
去年で、東京暮らしを始めて50年……半世紀が過ぎていた。そうして今年は51年になる。
ほどなく、実家で過ごした年月の3倍近くの時間が東京暮らしとなるのだ。
東京に出てきた時も、大学に入った時も、そして宮仕えを始めた時も、いつも“先”のことなど何の見通しもすることなく、将来設計図の一枚も引くことなく、何とも無計画にきてしまった。
まあまあうまいこといったから、それでよしという気持ちになっているが、見込み違いを重ねていたらどうなっていたことか、改めて振り返れば、我が身の能天気かつ“何とかなるさ”的な生き方で乗り切ってきたのではなかったかと気がついてしまったのである。
そうして何とかなってしまった、そうできた大きな理由の一つは間違いなく健康で過ごせたからだと、それは確かなことだろう。大学から宮仕えと続いた中で、大きな病気や怪我に見舞われたことは一度もなかった。
強靭でも頑健でもないが、そこは細く長く、冬に風邪を引いたりする程度でやり過ごしてこれたようだ。そうして51年……あと3年もすれば、2万日となるようだ。
《東京のトピックス一覧》
ほどなく、実家で過ごした年月の3倍近くの時間が東京暮らしとなるのだ。
東京に出てきた時も、大学に入った時も、そして宮仕えを始めた時も、いつも“先”のことなど何の見通しもすることなく、将来設計図の一枚も引くことなく、何とも無計画にきてしまった。
まあまあうまいこといったから、それでよしという気持ちになっているが、見込み違いを重ねていたらどうなっていたことか、改めて振り返れば、我が身の能天気かつ“何とかなるさ”的な生き方で乗り切ってきたのではなかったかと気がついてしまったのである。
そうして何とかなってしまった、そうできた大きな理由の一つは間違いなく健康で過ごせたからだと、それは確かなことだろう。大学から宮仕えと続いた中で、大きな病気や怪我に見舞われたことは一度もなかった。
強靭でも頑健でもないが、そこは細く長く、冬に風邪を引いたりする程度でやり過ごしてこれたようだ。そうして51年……あと3年もすれば、2万日となるようだ。
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過話§上京五十年~東京に出てきて~ [東京]
東京に出て行こうと思い定めたのはいつのことだったか……記憶の限りでは中学校に入る頃には既に“そうする”と決めていた。何度も書いている。
もちろん、だからといって東京で“何をする”という目的のようなものまで固まっていたわけではない。それこそ、一旗揚げて何かしてやろうなどと、そんな大胆なことを考えもしないことだ。ただ、そのまま北関東の小都市に住んでいたら、早晩行き詰まることだけは勘が働いたような気がするのだ。
だから頭の中では「逃げるんだ、早く逃げるんだ!」と、そんなことばかり考え続けていたようだった。
結局、そんな漠然とした発想から抜け出ることができないまま、それでも東京に出てきて、徒手空拳で闇雲に動いていた結果、半世紀後の自分がこれである。
その時の自分が、2023年の自分を想像できるはずなどないのは当たり前で、二十歳前に願望していたことが、アラ七十になるまでの40年の間に、実現ができたと言えるものか……実のところはよくわからない。それが晩年近くの正直な感想だろうか。
《東京のトピックス一覧》
もちろん、だからといって東京で“何をする”という目的のようなものまで固まっていたわけではない。それこそ、一旗揚げて何かしてやろうなどと、そんな大胆なことを考えもしないことだ。ただ、そのまま北関東の小都市に住んでいたら、早晩行き詰まることだけは勘が働いたような気がするのだ。
だから頭の中では「逃げるんだ、早く逃げるんだ!」と、そんなことばかり考え続けていたようだった。
結局、そんな漠然とした発想から抜け出ることができないまま、それでも東京に出てきて、徒手空拳で闇雲に動いていた結果、半世紀後の自分がこれである。
その時の自分が、2023年の自分を想像できるはずなどないのは当たり前で、二十歳前に願望していたことが、アラ七十になるまでの40年の間に、実現ができたと言えるものか……実のところはよくわからない。それが晩年近くの正直な感想だろうか。
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危話§首都高速は右へ左へ [東京]
運転免許を取ったのは、ちょうど三十代に入った頃のこと。住んでいたあたりは、駅までの便がバスしかなかったのと、仕事があまりにも忙しくて、食料品などのまとまった買い物は週末にしかできなかったりだった。
それで音を上げて免許を取ったのだが、まあおもしろいことに高速道路の運転はさほど怖いと思わず、さっさと走り始めたのだ。理由は簡単で、会社からの午前様&朝帰りにはタクシーが利用できて、タクシーが首都高から中央自動車道を走ることで、経路が頭の中に入ってしまったのである。
特に都心から首都高四号線の流れは、ほぼ完璧に把握してしまった。どこに出入口があるのか程度だが、首都高には建設時のスペースの問題ゆえなのか幡ヶ谷出口や高井戸出口のように、右車線から一般道に出て行くようになっていて、慣れない人には混乱を生じさせるところがあるのだ。
そんな不親切な構造の首都高を、自分が使うことになった時、タクシー帰宅していた時の記憶がナビゲーターとなってくれたおかげで、それぞれの場に応じた運転ができた。
だが、相変わらず緊張させられるところがある。首都高の霞が関料金所から新宿方面四号線へ入っていくラインがそれだ。
↓2枚ともグーグルストリートビュー
そもそも右車線側にある料金所を抜けてトンネルに入っていくと、2車線の
都心環状線が左から合流してくるが、その2車線を後続車に十分注意しなが
ら一気にまたいで、一番左の車線に入らなくてはならない。
↓一気に左車線まで走るのだ
そうしないと四号線に行くことはできず、行き過ぎたら都心環状線を一周さ
せられることになってしまう。これはもう曲芸のような合流で、建築する時
にドライバーの気持ちなど何も考えていなかったとしか思えないのだが。
《私事のトピックス一覧》
それで音を上げて免許を取ったのだが、まあおもしろいことに高速道路の運転はさほど怖いと思わず、さっさと走り始めたのだ。理由は簡単で、会社からの午前様&朝帰りにはタクシーが利用できて、タクシーが首都高から中央自動車道を走ることで、経路が頭の中に入ってしまったのである。
特に都心から首都高四号線の流れは、ほぼ完璧に把握してしまった。どこに出入口があるのか程度だが、首都高には建設時のスペースの問題ゆえなのか幡ヶ谷出口や高井戸出口のように、右車線から一般道に出て行くようになっていて、慣れない人には混乱を生じさせるところがあるのだ。
そんな不親切な構造の首都高を、自分が使うことになった時、タクシー帰宅していた時の記憶がナビゲーターとなってくれたおかげで、それぞれの場に応じた運転ができた。
だが、相変わらず緊張させられるところがある。首都高の霞が関料金所から新宿方面四号線へ入っていくラインがそれだ。
↓2枚ともグーグルストリートビュー
そもそも右車線側にある料金所を抜けてトンネルに入っていくと、2車線の
都心環状線が左から合流してくるが、その2車線を後続車に十分注意しなが
ら一気にまたいで、一番左の車線に入らなくてはならない。
↓一気に左車線まで走るのだ
そうしないと四号線に行くことはできず、行き過ぎたら都心環状線を一周さ
せられることになってしまう。これはもう曲芸のような合流で、建築する時
にドライバーの気持ちなど何も考えていなかったとしか思えないのだが。
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過話§上京五十年~代々木という町~ [東京]
一浪して予備校に通うために上京して2年間住んだのが代々木である。町名は千駄ヶ谷で、何と山手線の内側……紛う事なき都心住まいだった。家賃は7000円(7200円?)の三畳間で、台所、トイレは共同、もちろん銭湯通いで、窓から顔を出すとオレンジ色の中央線快速が行き来していたのだ。
ここでとりあえず予備校通い一年と、めでたく合格した大学に一年通った。代々木の2年間は何とも気楽なもので、仕送りの額は少なかったので、あれもこれもとできたわけではなかったが、交通至便でもあり、中央線快速の騒音も何のその、楽しくのびのびと暮らしていた。
交通費を節約するために、新宿や原宿あたりだったら、いとわず歩いて出かけたりして、金はないが、ないなりに都会のあれこれを吸収していたのである。
下宿から10分ちょっと歩けば、明治神宮裏側の森があって、それを抜ければ代々木公園、さらに歩を進めれば渋谷まで行き着いてしまう……まさに都会の子を満喫していたのだった。
そういえば、渋谷公園通りの渋谷パルコが開業したのは、下宿暮らしを始めてすぐの6月で、オープン早々の店内を舐めるように見て歩いたことも懐かしい。
代々木という町だけでなく、渋谷も新宿も、自分なりに楽しむことができたのである。
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ここでとりあえず予備校通い一年と、めでたく合格した大学に一年通った。代々木の2年間は何とも気楽なもので、仕送りの額は少なかったので、あれもこれもとできたわけではなかったが、交通至便でもあり、中央線快速の騒音も何のその、楽しくのびのびと暮らしていた。
交通費を節約するために、新宿や原宿あたりだったら、いとわず歩いて出かけたりして、金はないが、ないなりに都会のあれこれを吸収していたのである。
下宿から10分ちょっと歩けば、明治神宮裏側の森があって、それを抜ければ代々木公園、さらに歩を進めれば渋谷まで行き着いてしまう……まさに都会の子を満喫していたのだった。
そういえば、渋谷公園通りの渋谷パルコが開業したのは、下宿暮らしを始めてすぐの6月で、オープン早々の店内を舐めるように見て歩いたことも懐かしい。
代々木という町だけでなく、渋谷も新宿も、自分なりに楽しむことができたのである。
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過話§上京五十年~幼なじみなる・・・・・・~ [東京]
東京に出てきて半世紀……もっとも縁遠い言葉の一つに“幼なじみ”なるものがあって、当然ながら近くに幼なじみなど住んでいるはずもない。
おおよそ、幼なじみとは幼稚園から小学校あたりを一緒に過ごしたあたりを指してのことだと思うが、そうして考えてみるならば、何人かの顔を思い浮かべることはできる。
だが、彼らと顔を合わせる機会はほとんどない。20年近く前に中学校の合同クラス会に出た時とか、後は東京在住の高校同級生の呑み会で、保育園以来の幼なじみと会ったくらいか。
ずうっと生まれた土地に住み続けてでもしなければ、幼なじみとは縁遠いままでしかない。SNSで同級生の様子を眺めるなら、地元民同士でけっこう会って酒を呑んだりしていたりしている。
同級生の訃報もそんなあたりから知らされて……まだ還暦を過ぎたばかりとかの死を惜しむことになるのだ。そうして思い出す彼らの顔は中学生の時のまま。そうして、故郷を離れて半世紀の今、しみじみと思い知る言葉が……
故郷は 遠きにありて 思うもの
……なのだ。
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おおよそ、幼なじみとは幼稚園から小学校あたりを一緒に過ごしたあたりを指してのことだと思うが、そうして考えてみるならば、何人かの顔を思い浮かべることはできる。
だが、彼らと顔を合わせる機会はほとんどない。20年近く前に中学校の合同クラス会に出た時とか、後は東京在住の高校同級生の呑み会で、保育園以来の幼なじみと会ったくらいか。
ずうっと生まれた土地に住み続けてでもしなければ、幼なじみとは縁遠いままでしかない。SNSで同級生の様子を眺めるなら、地元民同士でけっこう会って酒を呑んだりしていたりしている。
同級生の訃報もそんなあたりから知らされて……まだ還暦を過ぎたばかりとかの死を惜しむことになるのだ。そうして思い出す彼らの顔は中学生の時のまま。そうして、故郷を離れて半世紀の今、しみじみと思い知る言葉が……
故郷は 遠きにありて 思うもの
……なのだ。
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過話§上京五十年~転居~ [東京]
三畳間の下宿に始まり、半世紀の東京暮らしで何度も転居を繰り返した……今住んでいるマンションが7軒目である。
昔々実家に“高島易断本暦”なる占いの小冊子あって、祖母が毎年買っていたのだけれど、自分の生まれ年だったか干支で占ってみたことがあった。
その結果はというと“若い頃は転居多し、長じて落ち着く”といったもの。それ以外の見立ては覚えていないけれど、このところだけはしっかり覚えているのだ。東京だけで転居7回というのは多いのではなかろうか。
たぶんおそらく、このマンションが終の棲家になるだろう。中古を安く購入した後、淡々と少しずつリフォームを繰り返し、贅沢を言えばキリはないが今の住み家の雰囲気には十分に満足しているのだ。
大規模リフォームを3回、最後が2009年。同居人がセンスと創意工夫を凝らし、かなりいい雰囲気の仕上がりになったことで、間違って売りに出しても多くの人に“欲しい!”と思わせる自信はある。もちろん、この先も売るつもりなどはないが。
そんなこんなで、東京暮らしが50年となる。
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昔々実家に“高島易断本暦”なる占いの小冊子あって、祖母が毎年買っていたのだけれど、自分の生まれ年だったか干支で占ってみたことがあった。
その結果はというと“若い頃は転居多し、長じて落ち着く”といったもの。それ以外の見立ては覚えていないけれど、このところだけはしっかり覚えているのだ。東京だけで転居7回というのは多いのではなかろうか。
たぶんおそらく、このマンションが終の棲家になるだろう。中古を安く購入した後、淡々と少しずつリフォームを繰り返し、贅沢を言えばキリはないが今の住み家の雰囲気には十分に満足しているのだ。
大規模リフォームを3回、最後が2009年。同居人がセンスと創意工夫を凝らし、かなりいい雰囲気の仕上がりになったことで、間違って売りに出しても多くの人に“欲しい!”と思わせる自信はある。もちろん、この先も売るつもりなどはないが。
そんなこんなで、東京暮らしが50年となる。
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過話§上京五十年~住んだ下宿~ [東京]
予備校1年、大学4年の間に暮らした下宿は、駅名で言うと山手線代々木、東武東上線成増と一軒ずつ。
代々木の時は三畳間だったが、そのうちの一畳の上半分が押し入れになっていたので、空間実質二畳半というものだった。交通の便は抜群によかったのだが、3年目に入って、弟が上京して同居することになったので、大学の学生課が紹介してくれた、ちょっと広めの下宿に引っ越した。
駅からは歩いて10分ほどで、部屋は六畳間に三畳ほどの板の間に流しとガス台が付いていた。できれば狭くとも、それぞれ独立した部屋があればよかったが、これがギリギリの選択だったのである。
住み心地は上々で、駅前には大きなスーパーが、下宿から歩いてすぐには、銭湯や八百屋などが並んでいて、それも助けになってくれたのだ。
結局、住み心地がよかったことと、何度も引っ越しをすれば、それだけ資金が必要になるから、3年間そのままお世話になった。家主さん一家も穏やかな人達だったのである。
卒業を控えた前年末に就職先が決まり、さすがにそのままお世話になることもできず、交通の便も考えて荻窪にアパートを借りたが、風呂が付いておらず、さりとて銭湯に行ける時間に帰宅することもできず、駅前にある割高なサウナを利用したが、半年で音を上げてあっさり風呂付きのアパートに引っ越したのだ。
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代々木の時は三畳間だったが、そのうちの一畳の上半分が押し入れになっていたので、空間実質二畳半というものだった。交通の便は抜群によかったのだが、3年目に入って、弟が上京して同居することになったので、大学の学生課が紹介してくれた、ちょっと広めの下宿に引っ越した。
駅からは歩いて10分ほどで、部屋は六畳間に三畳ほどの板の間に流しとガス台が付いていた。できれば狭くとも、それぞれ独立した部屋があればよかったが、これがギリギリの選択だったのである。
住み心地は上々で、駅前には大きなスーパーが、下宿から歩いてすぐには、銭湯や八百屋などが並んでいて、それも助けになってくれたのだ。
結局、住み心地がよかったことと、何度も引っ越しをすれば、それだけ資金が必要になるから、3年間そのままお世話になった。家主さん一家も穏やかな人達だったのである。
卒業を控えた前年末に就職先が決まり、さすがにそのままお世話になることもできず、交通の便も考えて荻窪にアパートを借りたが、風呂が付いておらず、さりとて銭湯に行ける時間に帰宅することもできず、駅前にある割高なサウナを利用したが、半年で音を上げてあっさり風呂付きのアパートに引っ越したのだ。
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