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過話§上京五十年~下宿で自炊~ [東京]

予備校から大学と5年間の下宿暮らしの間は自炊で通していた。親からの仕送りが潤沢ではなく、当たり前のように自炊をするものだと思っていたので苦になることはなかった。

最初の2年は一人暮らし、3年目から弟と二人での下宿生活である。記憶は曖昧だが、どうも朝食を抜いていた節があり、昼は学食で食べていたので、夕食だけ用意すればよかったのだ。

炊飯器でご飯を炊き、おかずを一品と味噌汁……簡素なものである。ご飯は二人で二合……まだまだ食欲があったから、それくらいは事もなく平らげていたのである。

おかずの材料は、学校帰りに最寄駅のスーパーマーケットで、値札をにらみながら、1円でも安い食材をと頭を悩ませては買い揃えていた。作る料理も若い男そのもので、肉野菜炒めであるとか、具だくさんの豚汁を鍋一杯とか、とにかくご飯を食べられればそれでよかったのだ。

その程度の自炊だったので、料理の腕がどうだとか、そんな状況ではなく、食材をうまいこと刻む包丁さばきくらいは何とか会得できたのである。

その後、大学を卒業して就職……再び一人暮らしを始めたが、激務の日々に自炊をする余裕などはないままの日々になってしまった。

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過話§上京五十年~今年は五十一年~ [東京]

去年で、東京暮らしを始めて50年……半世紀が過ぎていた。そうして今年は51年になる。

ほどなく、実家で過ごした年月の3倍近くの時間が東京暮らしとなるのだ。

東京に出てきた時も、大学に入った時も、そして宮仕えを始めた時も、いつも“先”のことなど何の見通しもすることなく、将来設計図の一枚も引くことなく、何とも無計画にきてしまった。

まあまあうまいこといったから、それでよしという気持ちになっているが、見込み違いを重ねていたらどうなっていたことか、改めて振り返れば、我が身の能天気かつ“何とかなるさ”的な生き方で乗り切ってきたのではなかったかと気がついてしまったのである。

そうして何とかなってしまった、そうできた大きな理由の一つは間違いなく健康で過ごせたからだと、それは確かなことだろう。大学から宮仕えと続いた中で、大きな病気や怪我に見舞われたことは一度もなかった。

強靭でも頑健でもないが、そこは細く長く、冬に風邪を引いたりする程度でやり過ごしてこれたようだ。そうして51年……あと3年もすれば、2万日となるようだ。

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過話§上京五十年~東京に出てきて~ [東京]

東京に出て行こうと思い定めたのはいつのことだったか……記憶の限りでは中学校に入る頃には既に“そうする”と決めていた。何度も書いている。

もちろん、だからといって東京で“何をする”という目的のようなものまで固まっていたわけではない。それこそ、一旗揚げて何かしてやろうなどと、そんな大胆なことを考えもしないことだ。ただ、そのまま北関東の小都市に住んでいたら、早晩行き詰まることだけは勘が働いたような気がするのだ。

だから頭の中では「逃げるんだ、早く逃げるんだ!」と、そんなことばかり考え続けていたようだった。

結局、そんな漠然とした発想から抜け出ることができないまま、それでも東京に出てきて、徒手空拳で闇雲に動いていた結果、半世紀後の自分がこれである。

その時の自分が、2023年の自分を想像できるはずなどないのは当たり前で、二十歳前に願望していたことが、アラ七十になるまでの40年の間に、実現ができたと言えるものか……実のところはよくわからない。それが晩年近くの正直な感想だろうか。

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危話§首都高速は右へ左へ [東京]

運転免許を取ったのは、ちょうど三十代に入った頃のこと。住んでいたあたりは、駅までの便がバスしかなかったのと、仕事があまりにも忙しくて、食料品などのまとまった買い物は週末にしかできなかったりだった。

それで音を上げて免許を取ったのだが、まあおもしろいことに高速道路の運転はさほど怖いと思わず、さっさと走り始めたのだ。理由は簡単で、会社からの午前様&朝帰りにはタクシーが利用できて、タクシーが首都高から中央自動車道を走ることで、経路が頭の中に入ってしまったのである。

特に都心から首都高四号線の流れは、ほぼ完璧に把握してしまった。どこに出入口があるのか程度だが、首都高には建設時のスペースの問題ゆえなのか幡ヶ谷出口や高井戸出口のように、右車線から一般道に出て行くようになっていて、慣れない人には混乱を生じさせるところがあるのだ。

そんな不親切な構造の首都高を、自分が使うことになった時、タクシー帰宅していた時の記憶がナビゲーターとなってくれたおかげで、それぞれの場に応じた運転ができた。

だが、相変わらず緊張させられるところがある。首都高の霞が関料金所から新宿方面四号線へ入っていくラインがそれだ。

↓2枚ともグーグルストリートビュー
kasumi.jpg

そもそも右車線側にある料金所を抜けてトンネルに入っていくと、2車線の
都心環状線が左から合流してくるが、その2車線を後続車に十分注意しなが
ら一気にまたいで、一番左の車線に入らなくてはならない。

↓一気に左車線まで走るのだ
kasumi2.jpg

そうしないと四号線に行くことはできず、行き過ぎたら都心環状線を一周さ
せられることになってしまう。これはもう曲芸のような合流で、建築する時
にドライバーの気持ちなど何も考えていなかったとしか思えないのだが。

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過話§上京五十年~代々木という町~ [東京]

一浪して予備校に通うために上京して2年間住んだのが代々木である。町名は千駄ヶ谷で、何と山手線の内側……紛う事なき都心住まいだった。家賃は7000円(7200円?)の三畳間で、台所、トイレは共同、もちろん銭湯通いで、窓から顔を出すとオレンジ色の中央線快速が行き来していたのだ。

ここでとりあえず予備校通い一年と、めでたく合格した大学に一年通った。代々木の2年間は何とも気楽なもので、仕送りの額は少なかったので、あれもこれもとできたわけではなかったが、交通至便でもあり、中央線快速の騒音も何のその、楽しくのびのびと暮らしていた。

交通費を節約するために、新宿や原宿あたりだったら、いとわず歩いて出かけたりして、金はないが、ないなりに都会のあれこれを吸収していたのである。

下宿から10分ちょっと歩けば、明治神宮裏側の森があって、それを抜ければ代々木公園、さらに歩を進めれば渋谷まで行き着いてしまう……まさに都会の子を満喫していたのだった。

そういえば、渋谷公園通りの渋谷パルコが開業したのは、下宿暮らしを始めてすぐの6月で、オープン早々の店内を舐めるように見て歩いたことも懐かしい。

代々木という町だけでなく、渋谷も新宿も、自分なりに楽しむことができたのである。

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過話§上京五十年~幼なじみなる・・・・・・~ [東京]

東京に出てきて半世紀……もっとも縁遠い言葉の一つに“幼なじみ”なるものがあって、当然ながら近くに幼なじみなど住んでいるはずもない。

おおよそ、幼なじみとは幼稚園から小学校あたりを一緒に過ごしたあたりを指してのことだと思うが、そうして考えてみるならば、何人かの顔を思い浮かべることはできる。

だが、彼らと顔を合わせる機会はほとんどない。20年近く前に中学校の合同クラス会に出た時とか、後は東京在住の高校同級生の呑み会で、保育園以来の幼なじみと会ったくらいか。

ずうっと生まれた土地に住み続けてでもしなければ、幼なじみとは縁遠いままでしかない。SNSで同級生の様子を眺めるなら、地元民同士でけっこう会って酒を呑んだりしていたりしている。

同級生の訃報もそんなあたりから知らされて……まだ還暦を過ぎたばかりとかの死を惜しむことになるのだ。そうして思い出す彼らの顔は中学生の時のまま。そうして、故郷を離れて半世紀の今、しみじみと思い知る言葉が……

故郷は 遠きにありて 思うもの

……なのだ。

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過話§上京五十年~転居~ [東京]

三畳間の下宿に始まり、半世紀の東京暮らしで何度も転居を繰り返した……今住んでいるマンションが7軒目である。

昔々実家に“高島易断本暦”なる占いの小冊子あって、祖母が毎年買っていたのだけれど、自分の生まれ年だったか干支で占ってみたことがあった。

その結果はというと“若い頃は転居多し、長じて落ち着く”といったもの。それ以外の見立ては覚えていないけれど、このところだけはしっかり覚えているのだ。東京だけで転居7回というのは多いのではなかろうか。

たぶんおそらく、このマンションが終の棲家になるだろう。中古を安く購入した後、淡々と少しずつリフォームを繰り返し、贅沢を言えばキリはないが今の住み家の雰囲気には十分に満足しているのだ。

大規模リフォームを3回、最後が2009年。同居人がセンスと創意工夫を凝らし、かなりいい雰囲気の仕上がりになったことで、間違って売りに出しても多くの人に“欲しい!”と思わせる自信はある。もちろん、この先も売るつもりなどはないが。

そんなこんなで、東京暮らしが50年となる。

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過話§上京五十年~住んだ下宿~ [東京]

予備校1年、大学4年の間に暮らした下宿は、駅名で言うと山手線代々木、東武東上線成増と一軒ずつ。

代々木の時は三畳間だったが、そのうちの一畳の上半分が押し入れになっていたので、空間実質二畳半というものだった。交通の便は抜群によかったのだが、3年目に入って、弟が上京して同居することになったので、大学の学生課が紹介してくれた、ちょっと広めの下宿に引っ越した。

駅からは歩いて10分ほどで、部屋は六畳間に三畳ほどの板の間に流しとガス台が付いていた。できれば狭くとも、それぞれ独立した部屋があればよかったが、これがギリギリの選択だったのである。

住み心地は上々で、駅前には大きなスーパーが、下宿から歩いてすぐには、銭湯や八百屋などが並んでいて、それも助けになってくれたのだ。

結局、住み心地がよかったことと、何度も引っ越しをすれば、それだけ資金が必要になるから、3年間そのままお世話になった。家主さん一家も穏やかな人達だったのである。

卒業を控えた前年末に就職先が決まり、さすがにそのままお世話になることもできず、交通の便も考えて荻窪にアパートを借りたが、風呂が付いておらず、さりとて銭湯に行ける時間に帰宅することもできず、駅前にある割高なサウナを利用したが、半年で音を上げてあっさり風呂付きのアパートに引っ越したのだ。

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過話§上京五十年~東京を歩いた~ [東京]

交通費の節約とかそんな理由もあって、東京で暮らし始めた頃は、あちこち頻繁に歩き回っていた。

予備校の入校式が九段の武道館で行われた時は、たまたま鉄道のストライキが行われていたので、代々木の下宿から新宿通りを武道館まで歩いていったのだ。

当時は国鉄だった中央総武線の線路沿いに秋葉原から代々木まで歩いたり、銀座から皇居の西側を青山通りから渋谷まで行ってみた……ああ、若いってすばらしいの一言しかない。

そんなことをせっせとやっていたおかげで、一部分ではあるけれど、東京の地理の様子を一年足らずの間に把握することができたのである。さすがに、タクシーの運転手になるには力不足だろうが、歩いたことのない場所でも、知った道と繋げてリンクさせることもできる。

歩くことを厭わなかったからこその蓄積が、今だに役に立ってくれている、元々が地図好きでもあったりしたことが、東京という街への好奇心も加わって、地理を把握していく原動力になってくれたということだ。

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過話§上京五十年~半世紀かよっ!~ [東京]

一浪することが決まり、予備校に通うために東京で独り暮らしを始めたのは1973年4月……そう、今年で東京暮らしが半世紀となるのだ。

記憶をたどれば、思春期の頃には東京に出て行くのだと思い定め、そうするべく決心を確実にするべく淡々と計画を進めてきたが、それがそのとおりに実行できるかどうかは不確定要素があまりにも多かった。

最終的には“いわゆるなし崩し的”に東京で下宿生活を送ると宣言し、親を納得させ、交通の便が抜群によかった代々木の三畳間で下宿をスタートさせた。その時の家賃は7200円である。

2階の部屋から窓を開けて右を向くと、オレンジ色の中央線快速が眼の前を行き来していて、騒音でうるさかったはずだが、どうも本人はそのことが気になっていた節はない。

仕送りは2万円。家賃と交通費で半分は消え、残る1万円を食費と生活費にあてて、ギリギリの家計管理をしていた。スーパーマーケットを何店が回って、安い食材を買って、朝晩は自炊を、昼は立ち食い蕎麦などでしのいだ。

一浪の後、第一志望ではなかったが、まあまあな大学に合格。面目を保ってキャンパス生活が始まった。

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江話§“西東京市”という不遜 [東京]

下の図は、iPadのゲームアプリ“全国ジグソー”の東京都で西東京市の位置を示したものである。

↓見てのとおり
IMG_3889.jpg

いったい、これのどこが“西東京市”なのかと思わずにはいられない。どこをどう贔屓目に見ても東京の中央から東に寄っているのは明白ではないか。

明らかに、三多摩、奥多摩地域を蔑ろにしているとしか思えない。いったい誰がこうしたネーミングにしようと考えたのだろう。ウィキペディアで経緯を眺めてみたが、理解不能である。

そしてあたかも、西東京市以西の地域は東京ではないかのように思われてしまうような気がしてならない。繰り返すが、どこをどのような思考回路を経て、住民投票で西東京市という呼称を選んだのだろうか。

田無市と保谷市が合併して西東京市となって21年……合併した新しい市名を見て以来、ずうっと抱き続けてきた違和感なのである。

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留話§首都高速道路~最近の渋滞事情~ [東京]

最近は月に一度か二度、首都高速道路を走って都心を往復している。もっぱら歌舞伎座の行き来……片道一時間少々のドライブだ。

かつて、首都高の渋滞は眼を覆うもので、そもそも都心環状線を経由して地方に向かうという道路設定の状態が長く続いてしまったから、そこまでたどりつくのが骨だった。

いつしか“圏央道”だったり、山手通りの地下を走る中央環状線が開通したので、かつてのような激しい渋滞ではなくなったのはありがたいことだったが、そうなればそうなったで、新しい渋滞の形が発生しているようである。

特に下り線については、中央環状線を経由して3号線から4号線、5号線から3号線へと向かう車が合流地点で渋滞を発生させることが増えたようだ。都心環状線は比較的走りやすくなったが、都心を経由せずに渋滞がその手前で前倒しで発生するようになったのである。

結局、そもそも片側2車線の狭いスペースにジャンクションを作って合流させるから、そこで車が詰まるのは当然ではないか。しかも合流していく距離が短いものだから、どんどん車が溜まってしまう。そしてスペースは足りない。

この間走った時は、都心環状線から断続的に渋滞があって、一時間少々で帰れるところ、40分余計に要してしまった。夜のドライブだったので、これはけっこう疲れた。

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去話§空間換算二畳半 [東京]

一浪して予備校に通うべく東京に出てきたのは1973年。暮らし始めたのは、意外にも代々木駅徒歩5分のところ。1階に家主一家が住んでいて、2階の何部屋かを間貸ししていたのだ……家賃は7200円。

借りた部屋は南向き。それはいいのだが、窓から首を出して右を向いたら、すぐ眼の前を、オレンジ色の中央線快速が頻繁に行き来していたのだった。まさに東京の真っ只中にいることを否応もなく実感させられた。

部屋の広さは三畳で、寝起きするには十分の広さだったが、奥の一畳の上半分が押し入れになっていて、空間換算すると二畳半の居住空間だったのである。

トイレは1階で、家主を含めた居住者全員の共同使用。2階に借家人用として、小さな流しと一口ガスコンロが自由に使えたが、自分以外の人間は自炊していなかったようで、ほとんど独占状態だった。

そんな、朝から晩まで“国電”が行き来しているそうな騒々しい空間から始まった東京暮らしも、気がつけば間もなく半世紀となり“青雲の志”みたいな何かを持って東京にやって来たのかすら思い出せない……そもそも青雲の志など持っていたかどうかすら忘れている。

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明話§新日本紀行~神田~ [東京]

思わぬ映像を見た。

K&A.jpg

1972年(昭和47年)に放送された、新日本紀行『江戸の残る町-東京神田-』のリニューアル版である。何とも懐かしいことに、その時リアルタイムで見たのだ。高校3年の時で、翌年には東京の大学を受験すると決めていたタイミングである。

中でも印象的だったのが、神田淡路町の“かんだやぶそば”で、先年火事で
焼失した旧店舗の様子と、帳場から注文を読み上げる独特の調子に驚かされ
たのだ。

これは行かなくてはと、なぜか強烈に思ったようで、浪人して予備校に通うのに上京した翌年、いそいそと出向いてみた。

……十代のチャラいお兄ちゃんが行くような店でないのは、入店した瞬間に感じたことで、腹を括って天麩羅蕎麦を注文したが、見慣れた海老天が横たわっていたわけではなく、小海老のかき揚げという洒落乙だったことに驚かされ、蕎麦の味などろくすっぽ感じ取ることなどできなかったのは当たり前である。

そんな自分自身の黒歴史を思い出しつつ、おおよそ50年も前の昭和の映像を楽しんだのだった。

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週話§日曜粛々~多摩ニュータウン50年~ [東京]

1971年に入居者を迎えた多摩ニュータウン……今年で50年なのである。入居が始まった当時は、まだ京王線も小田急線も開通しておらず、都心に通うためにはバスで聖蹟桜ヶ丘まで行くしかなかったのだ。

多摩ニュータウンを訪れた人ならわかることだが、開発するにあたって、幹線道路と鉄道を谷あいの低いところを走らせ、居住地域を丘陵の上に配置、居住地域には車道と歩道を分離させて、遊歩道をふんだんに通して行き来をスムーズにと考えてある。

そうはいっても半世紀も経てば、最初期の入居者は既に高齢の域に達して、5階建てまでの旧公団マンションにはエレベーターの設備がなかったり、坂の上り下りにも難儀するようになってきてしまった。

時間が経てば新たな問題が生まれ出てくるのは当然のことで、ほどなく我々の世代も、そうした問題に直面するのである。

今や、ニュータウンと呼ぶには、とっくにオールドタウンになってしまったわけだが、多摩ニュータウンに住み続ける人たちにとっては、四季の自然の変化を愛でられる住環境のすばらしさが何物にも代えがたいわけで、それこそが多摩ニュータウンの大きな魅力と言えるだろう。

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