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顧話§今日の歴史~宗教改革~ [キリスト教]

1521年1月3日、マルティン・ルター、ローマ教会から破門。

ルターが司祭になった頃、ドイツでは贖宥状(免罪符)が大々的に販売されていた。それは、選帝侯として政治的に重要なポストであるマインツ大司教位の地位を得たいという野望を持ったアルブレヒトの資金稼ぎのためだった。

そうした行為を営利目的の非宗教的行為と考えたルターは、1517年10月31日に『95ヶ条の論題』と呼ばれる書簡を送ったのである。

神学論争が巻き起こる中、自説を頑強に否定しないルターは、1521年のこの日、ローマ教会から破門されたのだ。

かくしてルターはプロテスタント(新教)を組織化したのだった。プロテスタント系の保育園に通い、洗礼こそしなかったが長じても日曜学校に出向いていた人間から見れば、ルターが考えたことはもっともで、いかに当時のローマ教会が“腐敗”していたかである。

だから今でも、むしろプロテスタントのほうにシンパシーを感じているし、免罪符という言葉には嫌悪感を抱き続けているのだ。

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週話§日曜枯寂~僧帽筋由来~ [キリスト教]

僧帽筋という、背骨と左右の肩甲骨から逆三角形にある筋肉がある。調べるともなく調べていて、たまたま名前の由来を知ったばかりなので備忘録的に書き記しておく。

僧帽とは、カトリックのカプチン会修道士たちがまとっている僧衣に付いているフードのことで、頭に被らず背中に垂らしておくと、その様が逆三角形でちょうど筋肉の位置と重なることから“僧帽筋”と呼ばれるようになったようだ。

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そして心臓の僧帽弁の由来についても、合わせてこちらに解説があったのでリンクを貼っておくが、知らないことはまだまだ数限りなく存在している。

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週話§土曜枯寂~グレゴリオ聖歌は~ [キリスト教]

カトリック教会のミサで歌われるグレゴリオ聖歌の存在を知ったのは、大学に入った頃だった。

ハーモニーのない、たゆたうような単旋律の素朴な聖歌を聴いていると、カトリックの修道士たちが、僧衣に身を包み、僧帽を目深に被って尾瀬ヶ原を歩いているかのような錯覚に襲われることがある。

冬、雪が降る直前の冬ざれた光景の中を、彼らが禁欲的に歩いて行くのだ。

KEN03229.JPG

そして彼らが俯きながら唱えているのがグレゴリオ聖歌であるとは、妄想が過ぎるかもしれない。

そんな妄想を、季節ごとに、勝手にかつ個人的に感じてしまう自分がいる。

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顧話§今日の歴史~アレクサンデルⅥ世~ [キリスト教]

1492年8月11日、初のコンクラーヴェ。

“根比べ”ではない“コンクラーヴェ”である。が、言われているとおり、根比べに近いものがあるのが、ローマ教皇選出の投票システムのようだ。

とにかく、何日も何度も投票を繰り返し、新しい教皇が決まらなかったら、その投票用紙は燃やされ、その度にシスティーナ礼拝堂の煙突から黒い煙が出て「教皇は決まらなかった」と知らせるのである。

コンクラーヴェの原型は13世紀後半に行われたようだが、おそらく現在と同様の体裁で行われたコンクラーヴェはこの時が初めてということか。

なお、このコンクラーヴェで選出された、アレクサンデルⅥ世の庶子こそが“悪名高い”チェーザレ・ボルジアと、妹ルクレツィア・ボルジアである。

そして、コンクラーヴェが行われる一週間ほど前、スペインの港から大西洋を西に向かったのが、アメリカ大陸を発見したクリストファー・コロンブスである。

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顧話§今日の歴史~2年半を要して~ [キリスト教]

1582年2月20日、天正遣欧少年使節が長崎港を出港。

コロンブスのアメリカ発見から百年足らず、マゼランの世界一周達成からも60年という、まだまだ航海技術もどれほどのものかはわからないが、日本からヨーロッパに少年使節を派遣したということがいかに難事業であったことかと思わせられる。

とにもかくにも記録を見ると、長崎からインド西部のゴアについたのが1年10か月後、ヨーロッパの地ポルトガルには1584年8月20日だから2年6か月の航海……今だったら飛行機で12時間ほどの旅程ではないか。

かくして彼らが、ヨーロッパの地を踏み、そして帰ってきた初めての日本人ということになるのだ。

しかもローマ滞在中には、ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見したと思ったら、4月10日に逝去。次に即位したシクストゥス5世の“戴冠式”に列席するという経験もしている。

少年使節のヨーロッパ滞在は2年に及び、1586年4月にリスボンから帰途に就いたが、1590年に帰参してからは、バテレン追放令からキリスト教禁教へと進む中で、棄教した者、殉教した者と悲劇的な運命となってしまった。

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顧話§今日の歴史~変人?~ [キリスト教]

1182年7月5日、アッシジの聖フランチェスコ誕生。

この日、聖フランチェスコがイタリア中部のアッシジで生まれたとあるが、確かなことではない。

1182年というと、日本では鎌倉幕府の成立まであと10年……平安時代の末期である。

“奇行”で知られていて、裸足で歩くくらいならまだしも、小鳥に向かって説教をするなどと、今でこそ聖人として奉られているが、存命中はさぞかし変人扱いされていたということだろうか。

聖フランチェスコについて、個人的な経験はというと、ドイツを旅行していて2回ほど“Barfüßer”というビアホールでビールを愉しんだことくらい。“裸足の修道士”という意味で、フランチェスコが作った“裸足で歩く”規則なのだが、ビール醸造と聖フランチェスコとの関連については知ることがない。

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