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顧話§今日の歴史~在任132日~ [歴史]

1945年8月17日、鈴木貫太郎が内閣総理大臣を辞任。

結果的に敗戦処理内閣として存在し、終戦の2日後に辞任した鈴木貫太郎である。正確には8月15日に内閣総辞職したが、東久邇宮内閣の成立を待って17日まで職務は続けられた。

敗戦に向けての処理や手続きは6月頃から始められ、ポツダム宣言を受諾、天皇の終結詔書までを淡々とこなしていったと見える。

半世紀以上前に『日本のいちばん長い日』という東宝映画で映画化封切されたのを観た。8月14日、降伏を決定した御前会議から始まって玉音放送までを、モノクロ映像で緊迫感を表出していたのだ。

その時、鈴木貫太郎を演じたのは笠智衆である。

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顧話§今日の歴史~オーデル・ナイセ線~ [歴史]

1950年6月6日、ズゴジェレツ条約成立。

旧東独とポーランドの国境をオーデル川とナイセ川(オーデル・ナイセ線)と取り決めた条約が成立した日である。

ズゴジェレツを訪れたのはもう21年前のことになる。まあ、正確に言うなら“足跡”を印したという程度で、滞在先のドレスデンから半日トリップで、ドイツ最東端のゲルリッツまで遊びに行った。

ものはついでと、当時EU加盟直前だったポーランドへ徒歩で国境を越えてみようと赴いたのがズゴジェレツである。もっと正確には、ゲルリッツとズゴジェレツはナイセ川を挟んで一つの町だったが、第二次世界大戦終了後に旧東独領ゲルリッツとポーランド領ズゴジェレツに分割されたのだ。

↓建物の煉瓦外壁の銃弾痕は大戦中のものか
DSC00145-tile.jpg

かつて一つの町だったのに、川幅50mにもならない小川のような流れに隔てられ、かたやドイツ語、こなたポーランド語を使う状況はまったく想像することができない。

下の写真は、2003年にナイセ川を渡ってポーランドに入った時の様子。車と歩行者は上下に分離されて、車道下の歩行者通路を行き来していた。

↓車道の先、橋を挟んだ奥がズゴジェレツ
P6100082-horz.jpg

ポーランドのEU加盟後は国境検問がなくなり、ストリートビューで見ると下にあった歩道は撤去され、車道と並んでいた。もちろん国境線は存在しているけれど、再び一つの町に戻ったように見えなくはないか。

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懐話§過去はよかったか? [歴史]

郷愁とはまったく別に、過去が事実としてどういう時代だったのか考えるべきことがある。誰でも過去を美しいものと見立てる……だが、それほど美しいものでなかったことに思い至るのだ。

昭和ですら、昭和四十年代あたりまでの町の汚さはどうだろう。その当時の映像に残っていなくても、バキュームカーや糞尿を回収するトラックが町を走り回っていたり、おっさんたちは路上に煙草の吸殻を捨てまくるし、痰をあたりかまわず吐き出していたし。

そんな様子を覚えているのかいないのか……なぜかわからないが、人はいい記憶だけを大事にして過去を美化するようである。

そうした外面的なことばかりではなく、人の社会もまだまだ改善途上で、人権の類が蔑ろにされていたことは、その時代の多くの出来事が如実に語っていることではないか。

過去をそうして回顧することで、人は免罪符的な何ものかを手に入れようと考えるのだろうか。だが、過去のバランスシートはオール100ではないのだ。美しいもの、そうでなかったもの……すべてを過去にあった事実として受け容れるべきなのだ。

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顧話§今日の歴史~助さん格さん~ [歴史]

1690年11月14日、水戸藩の徳川光圀が隠居。

水戸黄門が各地で世直ししたという話が史実でなく、ただの“都市伝説”ですらなかったというのは今さらながらのことである。

どこをどうすれば、そんな話が生まれ出てきたものか……テレビで漫遊記を観ていて、天下の宝刀である印籠を差し出す場面がやって来ると、いきなり平伏することを不思議に思っていた。それほど葵の御紋の威光はさもありなんなのか。そこまで情報が浸透していたのかと考えてしまい「そんな印籠、偽物に違いない!」と決めつけられて、はいそれまでよとなってしまうのではと考えなくもない。

徳川光圀という人は名君の誉れ高く、庶民にも広く知られていたがゆえに、いつの間にかそんな話が生まれて巷間に伝わっていったということだろう。

ただ、光圀時代の1657年に始めた『大日本史』の編纂作業があまりの大事業ゆえ、水戸藩の財政を傾けてしまったというのもまた事実である。

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顧話§今日の歴史~ヨーロッパの極小国~ [歴史]

1993年7月28日、アンドラが国際連合に加盟。

ヨーロッパは不思議な世界である。日本でいえば市町村レベルの面積でしかない小国がいくつもある……バチカン市国をはじめとし、合わせて5か国が存在している。

その中、フランスとスペインに挟まれたアンドラという国がある。面積は、金沢市とほぼ同じ、およそ468平方キロメートルというもの。

そして何とも不思議な統治システムで“歴史的理由”により、フランス大統領とカタルーニャのウルヘル司教の2人を共同国家元首と仰いでいるのだ。

共同統治は、1993年3月、憲法が国民投票で可決され、共同元首による議会民主主義制国家となる事が決定され独立国家となり、この年の7月には国際連合に加盟したのだった。

↓首都ファドゥーツの山上にはリヒテンシュタイン公爵の居城が
P6160248.JPG

アンドラなどは未訪問だが、ちょうど20年前の2003年にリヒテンシュタイン公国を訪れたことがある。オーストリアとの国境検問所を管理しているのはスイスで、そうした国々とのバランスの中で国が成り立っているのだ。

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顧話§今日の歴史~ファミレス事始め~ [歴史]

1970年7月7日、ファミリーレストラン・すかいらーく国立店が開店。

日本人はすぐに長い英単語を短縮して使ってしまう。ファミレスもおそらくあっという間にファミリーレストランが押し縮められたことだろう。

ファミレスの立地は郊外のバイパス沿いみたいなところが多く、家族揃ってドライブに出かけ、その途中で気軽に食事ができる店というコンセプトで展開していった……モータリゼーションの発達と並行して順調に店舗が増加していったと考えられる。

店内も小ぎれいで、これまであったような町場の食堂やレストランとは違い店員もマニュアルで動いて、オペレーションもスムーズだったりしたのだ。

ちなみに初めてファミレスに入ったのは、1978年の晩秋の頃のロイヤルホスト。どうして記憶がはっきりしているのかといえば、会社に入って7か月で荻窪から西武新宿線沿線に引っ越したからである。

アパート近くの千川通りにロイヤルホストがあるのを見つけた。使うのは、もっぱら深夜で、会社から乗ったタクシーを店の前で降りて、夜食を食べるのに利用したのだった。

それ以前、大学生時代などは、ファミレスの存在自体知らなかったし、仮に知っていたとしても、貧乏学生が入れるようなところではなかったのだ。

そんな深夜のロイヤルホストで食べていたのは、決まってコンビーフ・ハッシュ・サンドで、そいつをつまみながら生ビールを呑んでいたのである。

個人的には最も頻繁にファミレスを利用していた3年間ほどだった。

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週話§日曜枯寂~江戸城無血開城~ [歴史]

1868年3月5日(明治元年2月12日)、徳川幕府最後の将軍である徳川慶喜が江戸城を明け渡し、上野寛永寺に移った。

1853年、ペリーの黒船来航を明治維新の端緒とするならば、慶喜の江戸城開城から戊辰戦争までが、明治維新の完了と言えるだろうか。

まあ、ペリーという外圧がなくとも、早晩徳川幕府は瓦解しただろうと考えられるが、瓦解へとスピードアップの一つになったことは間違いない。

二百七十年になろうとする強固な体制を崩すためには15年という年月が必要だったのである。

そして、明治以降の日本がどのような道をたどったのか……戦争に戦争を重ねて、最後に崩壊を迎えたことは言わずもがなのことなのだ。

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顧話§今日の歴史~何の不都合が?~ [歴史]

2000年1月24日、参議院に選択的夫婦別姓制度の民法改正案提出。

選択的夫婦別姓制度に反対していた元国会議員の夫婦が離婚していたことが判明した。

夫婦別姓は家族制度を破壊するとかわけのわからない理由なのだが、言うまでもなく姓が一緒だろうが別姓だろうが、結婚生活が続いている夫婦はいくらでもいるし、夫婦同姓という法律が存在していようが離婚する夫婦は後を絶つことがない。

反対する人たちは、自分たちに特段の不都合などあるはずなどもないのに、何かに囚われてということなのか、まったく根拠のない陰謀論に惑わされてということなのか……いずれにしても、国会議員の正しい態度であるとは、とても言えないではないか。

というわけで20年前のこの日、超党派野党が提出した改正法案だが、これが20年以上過ぎた今でも実現するには至っておらず、いい加減に目を覚ましてすっきりと法案を成立させてほしいものだ。

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顧話§今日の歴史~日本漁船の拿捕~ [歴史]

1952年1月18日、李承晩ライン設定。

李承晩ライン……我々の世代でも“李ライン”と呼ばれていて、強く記憶に
残っている。

韓国が自国の水産業を保護すべく、日本の漁船の強い規制に乗り出し、しばしば漁船とその船員を拿捕して抑留。悲惨な抑留生活を送った乗組員の数は13年間の間に2700に越えていた。

1965年6月22日。日韓基本条約とともに日韓漁業協定が締結されたことで、ようやく李ラインが解消されたのである。

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タグ:歴史 韓国 日本
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顧話§今日の歴史~しばらく様子を・・・・・・~ [歴史]

1690年11月14日、水戸藩の徳川光圀が隠居。

水戸黄門(徳川光圀)が日本中を回って悪人を成敗したという話は、もちろんフィクションでしかなく、光圀自身は、江戸と国元の往復や領内を見廻ったのがせいぜいだった。

いかなる経緯で、隠居後に日本中を歩いて回る仕儀と相成ったものか……思いついた人はたいしたものである。

まあ、そうした逸話とは別に『大日本史』の編纂に着手したり、自分のやるべきことをわきまえて実行していたようだ。

ちなみに助さん格さんのモデルはいるようだが、テレビに登場してくる風車の弥七、うっかり八兵衛、かげろうお銀といった面々は、モデルはおろか、登場してくる動機すら不明であるとしか思えない。

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顧話§今日の歴史~戦争と平和~ [歴史]

1812年10月19日、ナポレオンのフランス軍がモスクワから撤退開始。

あまりにも深く戦線を伸ばしていった結果、補給線が細くなったことで、兵力が弱体化していったのだ。

深く進軍すればするほど前線に対しての補給……武器であり、食料であり、兵隊の補強が重要になっていくが、奥深くまでそうした物資を遅滞なく輸送していかなくては戦線が伸びることはない。食料が届かなければ兵士は飢えるばかりである。

かくして“ご機嫌”で進行していったナポレオン率いるフランス軍だったがモスクワまで進軍したところで頓挫を余儀なくされた。補給による不足を、モスクワ市内にある食料を略奪して補おうとしたら、何と!モスクワ市内に食料はなかった。

結局、ロシアの冬を眼の前に、ナポレオンは退却するしかなく、退却の様もまた悲惨なものだったようだ。

トルストイの『戦争と平和』は、そんな戦争の様子を描いた作品である。

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顧話§今日の歴史~横浜港のランドマーク~ [歴史]

1989年9月27日、横浜ベイブリッジ開通。

横浜ベイブリッジは一度だけ渡ったことがある。

いつのことだったかは忘れたが、雨降りの日に横浜側から湾岸線を東京へと走らせた時のことで、まだ偉そうなドイツ車を運転していた時のことだ。

首都高速道路だが、制限速度は80km/h(最初は70km/h)というもので、走ってみればわかるとおり、3車線ながらそれ以上の広さを感じ、実際のスピードと見た目のスピード感がまるで違っていた。

80km/hちょっとで走っていたら、普通の道路の40km/h程度としか感じられず“内緒”でアクセルを多めに踏んでみても、道の広さとスピード感覚の差異に戸惑った記憶がある。

その後、一度も走ることはないままにきてしまったのは残念といえば残念であろうか。

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顧話§今日の歴史~ナポレオンの石~ [歴史]

1813年8月26日、ナポリタン戦争“ドレスデンの戦い”始まる。

ナポレオンの石(Napoleonstein)なるものがドレスデン旧市街に存在する。

↓左がエルベ河、背後に宮廷教会
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アウグスト橋を渡って旧市街に入るとすぐに宮廷協会が建っていて、そこから少し左に行った宮殿広場の中に、ナポレオンの頭文字“N”を彫った石が埋め込まれているのだ。

src_11494854.jpg

その場所は、ナポレオンの司令部となっていて、そこから軍を動かしていたのだった。戦いは26日、27日の2日間というもので、ナポレオン率いるフランス軍に対峙したのは、プロイセン、ハプスブルク帝国、ロシア帝国の連合軍で、双方合わせて5万人近い死傷者が出た。

ナポレオンの石を見つけたのは9年前、2013年に旅行した時のことで、わざわざ、敷石に中にある“N”の石を探そうとする人などがいるはずもなく、最初はちょっと、在り場所を見つけられなかったが、難儀するほどのこともなく見つかった後は、さり気なく何枚かの写真を撮影したのである。

ちなみに、この年の5月にライプツィヒで生まれたのが、あのリヒャルト・ワーグナーである。何とも世情騒然とした時に生まれたものだ。

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顧話§今日の歴史~ソ連邦の崩壊~ [歴史]

1991年8月19日、ソ連の8月クーデターが失敗に終わる。

この時、折しもバイロイト初詣の直前だった。ミュンヘンで時差調整のため2泊過ごしていて、いざバイロイト!に向かう日の朝、テレビをつけたら、ソ連が何やら不穏な状況にあると告げていたようであったが、ドイツ語ゆえ詳細なところまで把握することができず、漠然とした不安を抱えながらバイロイト入りしたのである。

それから毎日、ソ連からの情報が流れてくるのを眺めていて、ゴルバチョフが軟禁されたことや、直後に大統領になったエリツィンが、クーデターを目論んだ“反逆者”たちを押さえ込めたことなどなどを知ったのだ。

結局、これが1989年に起きた東欧ドミノ革命の仕上げとなったのだった。

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顧話§今日の歴史~ピーナッツですとか~ [歴史]

1976年7月27日、ロッキード事件で田中角栄前首相逮捕。

この日、田中角栄が逮捕された。総理大臣経験者が逮捕されるのは、昭和電工事件の芦田均以来のことである。

その後、東京地裁、東京高裁で有罪判決を受けたものの、最高裁に上告中の1993年12月に逝去。公訴棄却となったが“首相の犯罪”としては、角栄の秘書だった榎本敏夫の最高裁における判決理由の中で、角栄の5億円収受を認定したのだった。

田中角栄逮捕を知ったのは、夏休みのアルバイトで入っていた尾瀬沼畔長蔵小屋だったのだ。

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