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週話§土曜流転~優先席は・・・・・・~ [鉄道]

古稀となったが、相変わらず電車の優先席からは距離をとっている老夫婦である。

おそらく世間的には、座っても一向に問題のない高齢者と見做されるであろうことは間違いない……優先席の有資格者なのだが、今だに足が向かない。

そう逡巡している間に、普通の座席の前に立っていたら、席を譲られてもおかしくない風貌になっているような気がしないでもなく、座っている若い人たちに気を遣わせてしまう可能性があることに気がついた。

かくして“我々の優先席”の行方はどうなるのだろう。
 
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無話§毎日電車に乗っていた [鉄道]

宮仕えして定年退職するまでの37年半というもの、月曜から金曜まで毎日毎日電車に乗って通勤していた(遠ひ眼

帰宅は不規則で、電車に乗って帰ることのできない境遇だったし、ラッシュアワーに乗る必要もなかったから、普通の勤め人よりは楽な通勤形態で過ごしていたのだ。

そんな37年半から、週に一度も電車に乗ることのない退職者の我が身だが、改めて振り返ってみるならば、よくもまあ淡々と通い続けていたものだと思う。

まあ、そりゃあ“行きたくないなあ”みたいなことを考えたこともなかったわけではないけれど、それはまあ、休み明けの月曜日だったり、夏季休暇の旅行から帰ってきた直後だから無理もなく、それ以外は別段出社拒否みたいな大ごとにはならずに通っていたのである。

それはもう、働かなければ干上がってしまうわけで、寝転んでお手当てが飛んでくるなど考えたこともなかったのは当然だ。

おかげで、大きな病気で穴を開けることもなく、何とか牛後に引っかかって引きずられての宮仕えをまっとうできたことについては、自分をほめたいと心の底から思いながら、古稀の日々を歩み始めたのである。

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顧話§今日の歴史~いずこへ?~ [鉄道]

1965年9月24日、国鉄が「みどりの窓口」を開設。

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およそ60年前にコンピューターによる予約チケット発券システム「みどりの窓口」が営業を開始した。スタートした当初は“マルスM型”という、今は京都鉄道博物館に展示されているシステムが使われていた。

↓これを操作していたのだ~京都鉄道博物館~
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すぐ目に入るのは線名と駅名が書かれた厚いノートのようなものをパタパタと探して、発駅と着駅にピンを差し、指定席券や特急券、急行券を発券させていたのだ。

開設した頃は、駅の窓口が開くのは10時、繁忙期には希望の座席を求めて長い列ができることもあったのである。

20世紀の間、数は少なかったがみどりの窓口を利用して、特急券や指定席を買い求めていた。21世紀に入ったら、ぱったりと国内移動をしなくなって、気がついたら、みどりの窓口がどんどん閉鎖されて問題になっていると聞いた。

時代はあっという間にインターネットを使っての予約になってしまっていて窓口を縮小しても問題ないと考えたのであろうが、今度はインバウンドの客が押し寄せて、窓口を維持する必要に迫られたのである。

そして、詳しくはわからないが、国鉄時代はともかくも、民営化された今、JR各社での統一&連携がなされていないとか聞いている。そうした縦割りの影響がどれほど出ているのだろうか。いずれにしても、窓口対応とネットとバランスよく運営してほしい。誰でもネットを操作してチケットが買えるわけではないのだ。

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顧話§今日の歴史~懲りない・・・・・・ですねえ~ [鉄道]

1987年5月13日、JR東日本が国電に代わる愛称「E電」を発表。

とかく“お上”と思しき人たちが麗々しく打ち出す類にろくなものがないというのは昔からの話で、その典型が「E電」という、鼻水が噴き出すような笑おうにも笑えず、センスの一欠片もない愛称とかいうやつである。

とにかく、本人たちは大まじめで、これを広めようと思っているのだから、おめでたいと言うか、何と言うか……いやはやどうも。

こいつが発表された瞬間、一斉に“だっせー!”の大合唱が巻き起こったのは言うまでもない。当時まだネット社会ではなかったが、これがもしネットの御代であったら、どれほど凄まじい炎上ネタになったのかとは、想像に難くない。

発表直後から“E(エラー)電”などと揶揄されてしまった呼称には未来など存在せず、あっという間、それこそユーザーの誰一人使うことないままに、そして誰も気がつかないうちに一顧だにされず、JR東日本内部の社内用語としてひっそり生き延びているようだが、たぶん中の人も誰一人使ってなどいないに決まっている。



そんなJR東日本が、懲りずにやらかしたのが“高輪ゲートウェイ駅”である。2020年、品川と田町の間に1971年以来の山手線新駅の開業にあたって、新しい駅名を公募したのだが“ゲートウェイ”で応募したのは百人ちょっとで、多くは単に高輪であったり芝浦や芝浜といったものだったのに、何をとち狂ったか、高輪ゲートウェイという意味不明な駅名をひねり出したのだ。

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当然ながら世間の反応は冷たく、そのまま今に至っていて、もちろんながらJR東は駅名を変更するつもりはさらさらなく、たぶん多くの人は長ったらしいのを避けて“高輪”で済ましていることと思われる。

それにしてもと思うのは、そんなことをするくらいなら、わざわざ公募などする必要はなく、会社の好きにすればいいんじゃないのと考えるのだが。

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顧話§今日の歴史~愛称はイモ電~ [鉄道]

1907年3月6日、玉川電気鉄道が、道玄坂上-三軒茶屋間で開業。

東京に出てきた時には、既に“玉電”は廃線となっていた。だから実際に走る様子を見たことはない。

元々が路面電車好きなので、通称“イモ電”が走る姿を見たら、さぞや喜んだことだろう。合わせて都電も、荒川線を残して姿を消していた。

そんな玉電の残滓を辛うじて残していたと思われるのが、京王線下高井戸から三軒茶屋の間を現役で走っている世田谷線で、今はモダンな車両に替わっているが、最初に見た時はまだまだクラシカルで鄙びた往年のそれだったのである。

昨今、宇都宮だったかで路面電車が新たに運用を始めたりしている。それをもって路面電車の復権だなどとは思わないが、公共交通の一つの形態としてあってほしいと思っているのだ。

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運話§降りる降りない~挙動不審~ [鉄道]

宮仕え時代の電車通勤の話である。

行きは、ラッシュアワー時間帯を避けて出かけるので確実に座れるのだが、帰宅する時は、座れるか座れないか微妙な駅で、座れない時のほうが多い。それではと、早々と降りてくれそうなお客さんを探してその前に立とうとするのだが、この見極めがなかなかに難しい。

中でも、駅が近づくとキョロキョロしだす人が眼の前に座っていて、ということは2、3駅くらいで降りてくれるのかなと期待をするのだが、何というか、一向に“降りない”てくれず、駅が近づくたびに落ち着かなくなるだけなのだ。

その手のお客さんがけっこういらっしゃって、期待が大外れになること頻繁だったのである。あまつさえ“静かに”座っていた両側のお客さんがさっさと降りて座り損なうこともあったりした。

いつの頃からかそのことに気がついて、そうした“挙動不審”な人の前にはできるだけ立たないようにと中止したが、何ということかそうした挙動不審な人がさっさと降りていくこともあって、結局は立ち位置で一喜一憂すること自体が何の意味もないという結論に達したのである。

だがしかし、我が身も高齢化が順調に進行しているので、帰りの電車で座れるかどうかは切実な問題になりつつあるのだ。

優先席があるではないか……なのだが、それはもう少し先の話で、まだまだ優先されるほどではない。

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懐話§昭和四十年代~冷房車~ [鉄道]

[承前]

当時の国鉄であれ、私鉄各線であれ、1970年代になっても、車両の冷房化は遅々として進むことがなかった。

東京に出てきたちょうど半世紀前の1973年、例えば山手線の冷房化率はおよそ3割程度。駅で電車待ちをしていて、遠くに緑の電車が見えて、その屋根にエアコンの室外機が搭載されていたら“ラッキー!”と思ったのである。

というわけで、1970年代は首都圏でも電車の冷房化は低いままだった。そういえば“国電”でも窓を開けて走らせていたのではなかったかという記憶。

そして、冷房化が進んできたと感じるようになったのは、宮仕えが始まった昭和五十年代の前半あたりからではなかっただろうか。

それでも進まなかったのは地下鉄である。それはそうだろう、狭くて細長いトンネルを走り続けるのだから。それでもって、我が都営地下鉄新宿線の冷房化状況はどんなものだったか調べてみた。

京王新線からの乗り入れ車両の冷房化が始まったのは、開業から7年経った1987年のことで、それまでは京王線の車両でも新宿から先の都営線内については「新宿から先、冷房運転はいたしません」と断りのアナウンスがあったのだ。

そして都営線全車両の冷房化が実現したのは、何と1995年のことだった……定年退職まで20年に迫っていた。
                               [続く]

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週話§日曜枯寂~路面電車~ [鉄道]

先月26日、宇都宮で路面電車(LRT)が開業した。実に75年ぶりの新規路線の誕生である。

かつては、東京にも京都にも都電や市電が走っていたが、自動車の激増による道路渋滞が影響して、徐々に姿を消していってしまった。ここに来て新たな路面電車の開業が、どのような意味を持つものか、興味をもって先行きを眺めようと思う。

ところで、路面電車が走っている街は大好物だ。海外を旅行していて、街に路面電車が走っているのを見るとうれしくなる。

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特にドレスデンのような“古都”の旧市街を縫うように走っているのを見るのは好きだし、数年前にインスブルックでも可愛い市電が走っていて、こんな小さい都市なのにと感心したことがあった。

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ヨーロッパの国々では、公共交通の運行が充実していて、その意識の高さに敬意を払いたくなるのだ。どこか……アジアの国のように、赤字が重なるとさっさと廃止してしまうのとは、交通インフラに対する意識がまったく違うと見受けられるのだが。

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老話§優先席・・・・・・ [鉄道]

あと一年ちょっとで古希七十歳を迎える。色々とガタがきてはいるけれど、まあまあな状態にあるのではないか。

それで、電車の“優先席”である。これまで一度として座ったことはない。自分の中で、勝手に優先順位を決めていて、自分自身は、その中でも下位に属している。

よく「空いているから座って、お年寄りとか“該当する人”が来たら譲る」とか言う人がいて、だがそういう人が席を譲るものだろうか。そんな居心地の悪い状況の中でよく座り続けられるものだと思う。

というわけで、このところ……年に一度くらい、席を譲られそうになってきて……うーむ、いよいよ高齢者認定かと己が姿を眺めるのだが、これでまあステッキでも持ってうろついていれば、席を譲られることは100%間違いないところだが、さすがにステッキのお世話になるのはまだまだ先の話である。

だが、痩せ我慢とか空元気のつもりなどないけれど、まだもう少し頑張れるかなとは思っている。そうはいってもそう遠くないところで優先席のお世話になるかもしれない。

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顧話§今日の歴史~国鉄戦後五大事故~ [鉄道]

1962年5月3日、国鉄三河島事故。

1950年代に起きた桜木町事故、洞爺丸事故、紫雲丸事故と、1960年代に起きた三河島事故、鶴見事故を国鉄戦後五大事故と読んでいる。5つの事故とも死者百人を超えている……洞爺丸事故は死者1155人を数える。

50年代の事故の記憶などはないが、60年代の三河島、鶴見と二つの事故は、小学校低学年の時に起きたものだが、はっきりと記憶している。ニュースの映像も、列車が折り重なった生々しいもので、子ども心に“なぜ、こんな大事故”が、それも立て続けに起きてしまったのだろうかと思ったのだ。

ATC(自動列車制御装置)が設備された東海道新幹線が開通したのは、2年半後の1964年10月。それから2年後の1966年にATS(自動列車停止装置)が国鉄全線に設備された

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睡話§寝台車に乗ったのは [鉄道]

たった一度だけ寝台車を利用したことがある。1981年のゴールデンウィークのことで、気まぐれに北海道の東側を2泊で回り、3泊目は根室から札幌まで、さらに札幌から函館経由して青函連絡船で早朝の青森へは夜行だった。

青森の奥の温泉でのんびりした後、青森から上野まで乗ったのは寝台特急の“はくつる”で、確か18時50分発と記憶している。

B寝台だったかで、2段ベッドの上段を予約していた。なかなか寝ることができないとか話には聞いていたが、何となくぐずぐずしているうちに寝ついてしまい、次に気がついた時は仙台に停車していた……深夜0時前のこと。

その後、列車は東北本線ではなく、常磐線を経由して上野へ向かうのだったが、その次に目覚めたのは確か江戸川を渡ったあたりで、金町を通過するところを目にしたのだ。

上野到着は5時半頃。懸念するほどのこともなく、思った以上に眠ることができて、快適な寝台車の旅になってくれたのは意外なことだった。

それが最初で最後の寝台車利用だったが、それは金に余裕のできたサラリーマンの身分だからできたことで、貧乏大学生の時の長旅は、夜行の各駅、よくて夜行急行で、行きも帰りもほとんど完徹だったのである。

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潜話§地下鉄発展途上だった・・・・・・今は [鉄道]

高校を卒業して東京に出てきたのは、ちょうど50年前の1973年だった。その当時は営団地下鉄と呼ばれていた、今の東京メトロである。

その営団地下鉄で営業していたのは銀座線、丸ノ内線、日比谷線、東西線、千代田線の5路線と都営が浅草線、三田線の2路線だった。

↓上京した当時の路線
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その後、有楽町線、半蔵門線、南北線、副都心線と開業。都営は、新宿線と大江戸線が加わった。

↓それが、かくも複雑に
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記憶に刻み込まれていることとして、都営新宿線の開業は、宮仕えを始めた1978年、岩本町と東大島間だったことで、その後京王線との相互乗り入れが実現し、1982年から33年間を京王線と新宿線でせっせと通勤していたのだ。

有楽町線と半蔵門線開業くらいまでは何とか追いつけたが、ラスト3線……南北線、大江戸線、副都心線あたりは訳がわからなくなりつつなってしまった。理由は簡単で、都内の地下鉄路線は何とかなっても、気がついたら、私鉄などとの相互乗り入れが激増していたのである。

特に副都心線など、本線自体は短いのだが、東横線や東上線、西武池袋線と相互乗り入れしていて、その複雑さに追いつけなくなった自分がいるのだ。

もちろん、自分が頻繁に使っている路線はしっかり把握しているから問題はないが、それにしても都内の地下鉄の密度には驚かされる。

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環話§JR山手線30駅 [鉄道]

かつて29駅あったJR山手(やまのて)線だが、一昨年3月、品川と田町の間に高輪ゲートウェイという変な名前の駅が開業、30駅となった。

一浪して予備校に通い始めた頃、山手線のホームで電車を待ちながら、どうかなと思いながら挑戦したら、すんなり29駅を覚えてしまって、それは今だ頭の中から離れてはいない。でまあ、新しい駅が開業してもすんなり差し込んで問題は起きてはいない。

ところでと頭を動かしたのは、山手線30駅の中で乗り降りしていない駅がい
くつあって、さてどこかと考えた……東京、有楽町、新橋、浜松町、田町、
(高輪ゲートウェイ)、品川、大崎、五反田、目黒、恵比寿、渋谷、原宿、代
々木、新宿、新大久保、高田馬場、目白、池袋、大塚、巣鴨……来た来た!
(駒込、田端、西日暮里)と4駅が改札口を出入りしていないのである。

そして、その先の日暮里、鶯谷、上野、御徒町、秋葉原、神田と乗り降りをしている。もちろん田町と品川の間の高輪ゲートウェイも乗り降りしていないから、30駅中4駅が未訪問だった。

はてさてこの先、山手線全駅制覇が成るだろうか。東京に出てきておおよそ半世紀、今だに全駅改札口を出入りしていないということに改めて気がついたのだ。

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貧話§JR東日本の赤字線 [鉄道]

先月、JR東日本が自社路線で赤字を出している路線を発表した。合わせて35路線66区間が赤字とのことである。

この先、どの路線も劇的に黒字に転換する可能性は薄いと思わざるを得ず、現状のまま推移するようであれば、廃線からバス運行転換を図るしかない状況にあるようだ。

そもそも利用者の絶対数が少ない中で利用者増など望めるはずもなく、公共交通機関としては、どこまでを許容範囲として営業を続けられるかの瀬戸際といえるだろう。

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上は、久留里線の時刻表を拝借してきたものだが、これでもギリギリの運行本数を確保しているということだろうが、もはや交通機関としての態を為していないのではと思うしかない。

しかも、こんな運行状況でも赤字が積み重なっていくのだ。運行を継続するために赤字補填を続けていくのか……打ち出の小槌はいつまでも御利益があるわけではなく、かつて国鉄からJRに業態転換がはかられた時は第三セクターで存続させた路線もあったが、ここに至って第三セクターへの移行も難しいということか。

……こういうところからも日本の縮小は進んでいるのである。

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売話§キオスクが消えた [鉄道]

もう何年も前からのことだが、駅構内やホームで営業していたキオスクが、軒並み閉店してしまっていた。

閉店した理由は至極簡単で、同じ立地でコンビニが開店していたのである。しかも1軒だけではなく、狭い範囲で2軒も3軒も営業しているのである。

これでは、あの集中的小規模経営のキオスクはたまったものではなかったであろうとは、想像に難くない。あのスペースでは、置いている商品も種類も限られてしまうのは当然で、豊富な種類の食料品を中心に、様々な商品展開がなされているコンビニにかなうはずもなかっただろう。

ライフスタイルが変化していく中、かつては煙草やチューインガムのような軽い菓子類、それに新聞と週刊誌を商っていたキオスクは大きく遅れを取ることになってしまったのだ。

我が実家があった地方の小都市では、町の中心部の商店街が空洞化し、郊外にできた大規模ショッピングセンターに客を取られて、シャッター商店街と化して久しい。一つの店で限られた種類の商品しか置かれておらず、複数の買い物をするためには何軒かの店への行き来を繰り返さなくてはならない。

キオスクの消滅とシャッター商店街と、何か共通点があるような気がする。

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