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高話§ジュピター~交響曲を一曲選ぶなら~ [モーツァルト]

もう、このまま狭い範囲でしか聴かないままに我がクラシック人生は終わりが近づいている。

交響曲もしかり、ハイドンちょっとだけ、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームスはまあ何とか、ブルックナー惨敗、マーラー惜敗、ドイツ系以外は見るも無残な状況だが、そんな中“交響曲一曲”だけ選ぶという無謀な試みをしてみた。

モーツァルト:交響曲第41番 C-Dur Kv.551 “ジュピター”



この一曲をもって、我が交響曲が完結する。もちろん、数多ある交響曲からたった一曲を選ぶなどとは到底不可能でしかなく、無謀な試みであることは百も承知のことである。

なぜ、ジュピター交響曲を選んだのかと聞かれれば、ひとえに第四楽章のゆえなのだ。CDFE(ドレファミ)という単純なモチーフがフーガとなって、壮大に展開していく。フィナーレに近く最初のモチーフが再現された瞬間、オーケストラの醸す音楽は、神の音楽であるが如くに天上へと吸い込まれていくのだ。

日頃は無神論者であると任じているけれど、こういう時ばかりは、ひょっとしてどこかにいらっしゃるのではないか、ほんの少しだけだが、その存在を感じなくもなく、一瞬でもそんなことを感じさせてくれたモーツァルトに感謝せずにはいられない。

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才話§モーツァルトの誕生日 [モーツァルト]

1756年のこの日、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがザルツブルクで生まれた……あと34年で生誕三百年ではないか。

彼の音楽を聴いていて、不幸だと感じることはない。気分がちょっと……という時でも、モーツァルトを聴けば気分は治ってくれる。

時に短調の曲だったりすれば、ちょっとメランコリックにもなったりするが決して気持が落ち込むわけではない。

彼の音楽には、まさに“屈託のなさ”のようなものが常に中心にあって、それが我々の心を穏やかにしてくれるということだろうか。

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才話§モーツァルト―マイカテゴリー―明日は [モーツァルト]

明日はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト没して229年の命日だ。

今のドイツやオーストリアと呼ばれる地域が、どれほどの作曲家を輩出したか。バッハからヘンデル、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームス、ワーグナー……もちろん彼らだけが作曲家ではない。そんな中にあってモーツァルトの存在を何にたとえようかと考えるが、なかなかうまいこと思いついてくれない。

そんなことを考えるより、彼の音楽を聴けばそれで済むことなのだ。何でもいい、ピアノ・ソナタでも、弦楽四重奏曲でも、オペラでも……とにかく、聴けば“ああ、モーツァルト”と独り言をつぶやくであろう。

というわけで、クラリネット五重奏曲を聴いてみよう。1789年、彼の晩年近くに作曲された穏やかな音楽は、初冬の今頃に聴くととりわけ心に沁みる。

モーツァルトがこの音楽を作曲していたのは三十代前半、そんな彼の視線の先には、何が見えていたのだろうか。音楽は十分すぎるほどに熟成されて、むしろ五十代、六十代の人間の手になるもののような老境すら感じ取れてしまう。

生き急いだわけでないとわかるのは、1788年に作曲された最後の交響曲41番“ジュピター”の輝かしい音楽を聴けばわかる。終楽章の圧倒的な推進力は勝利そのものではないか。まさに天馬空を翔ける音楽ではないか。

寿命とはいえ、1791年12月5日にわずか35歳の生涯を終えたことは痛恨で、まだまだ汲めども尽きぬ音楽の泉から滔々と溢れ続けたのは間違いない。

追記:この日は合わせて、十八代目中村勘三郎が2012年に没した日である。我が同時代に生きた稀有な役者の早い死を、生き残った我々は悼み続けるのである。

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