懐話§昭和三十年代~電気製品~ [昭和]
[承前]
物心がつき始めたと思しき保育園に通い出したころの実家に、どれほどの電気製品が存在していたか、記憶をたどってみた。
で、八畳と四畳半の居室に電灯(後に蛍光灯)が一つずつ。真空管ラジオ1台くらいしかなかった……えーと、まじでそれだけ。台所にも便所にも照明はなかったのである。記憶を刺激しても、家にあった電気製品はそれくらい。
確か、コンセントも居室に一つずつくらいはあったと思うが、何しろ時代遅れをいとわない父親だったので、家に何か新しい設備が入ることはほとんどなかったのだ。何しろ、こたつだって木炭を熾していたし、アイロンも本体に炭を入れて使っていた。
とにかく、本当に電気製品がなかったのだ……昭和三十年代も半ばに入ったというのに。何度か書いているが、テレビは1962年(昭和37年)になってようやく我が家にやって来た。周り中の家にテレビが入って、ようやく一番最後だったのである。
それから扇風機が入り、冷蔵庫は1967年だったから昭和四十年代だったし、洗濯機が入ったのはそれからさらに3年くらい後だったのだ。
小都市ではあれど繁華街の真っただ中にぽつん、時代遅れをいとわない家が存在していた。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
物心がつき始めたと思しき保育園に通い出したころの実家に、どれほどの電気製品が存在していたか、記憶をたどってみた。
で、八畳と四畳半の居室に電灯(後に蛍光灯)が一つずつ。真空管ラジオ1台くらいしかなかった……えーと、まじでそれだけ。台所にも便所にも照明はなかったのである。記憶を刺激しても、家にあった電気製品はそれくらい。
確か、コンセントも居室に一つずつくらいはあったと思うが、何しろ時代遅れをいとわない父親だったので、家に何か新しい設備が入ることはほとんどなかったのだ。何しろ、こたつだって木炭を熾していたし、アイロンも本体に炭を入れて使っていた。
とにかく、本当に電気製品がなかったのだ……昭和三十年代も半ばに入ったというのに。何度か書いているが、テレビは1962年(昭和37年)になってようやく我が家にやって来た。周り中の家にテレビが入って、ようやく一番最後だったのである。
それから扇風機が入り、冷蔵庫は1967年だったから昭和四十年代だったし、洗濯機が入ったのはそれからさらに3年くらい後だったのだ。
小都市ではあれど繁華街の真っただ中にぽつん、時代遅れをいとわない家が存在していた。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
懐話§昭和三十年代~駄菓子屋~ [昭和]
[承前]
さて小学生時代、放課後のお楽しみは駄菓子屋に行くことだった。ランドセルを放り出し、家から路地を出れば目の前に駄菓子屋があったのだ。
その当時、どこの町内にも駄菓子屋の一軒はあって、子どもの溜まり場なのだった。
当時は着色料だの保存料だのがはびこりまくっていて、そんな存在など知るはずもなく勝手放題に駄菓子を口にしていて、それでも成長していたのだ。そこでひとしきり時間を過ごせば、渋々家に戻って宿題に手を付けるのである。
そんな実家近くの駄菓子屋だが、夏になるとかき氷屋に変貌する。店の一角に手回しのかき氷機を置いて、赤、緑、白のシロップをかけて1杯10円だ。
他の駄菓子屋では、冬場になると火鉢の上に鉄板を置き、水で溶いただけの小麦粉に醤油を垂らしたタネを1杯10円で売り“もんじ焼”と称してガキ共の佳きおやつとして他愛なく焼いて食べていた……そんな生地にあれこれの具を入れたのが後に“もんじゃ焼”となったのだろうか。
このところテレビで駄菓子屋が取り上げられているの見て、自分たちの昔を思い出していたのである。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
さて小学生時代、放課後のお楽しみは駄菓子屋に行くことだった。ランドセルを放り出し、家から路地を出れば目の前に駄菓子屋があったのだ。
その当時、どこの町内にも駄菓子屋の一軒はあって、子どもの溜まり場なのだった。
当時は着色料だの保存料だのがはびこりまくっていて、そんな存在など知るはずもなく勝手放題に駄菓子を口にしていて、それでも成長していたのだ。そこでひとしきり時間を過ごせば、渋々家に戻って宿題に手を付けるのである。
そんな実家近くの駄菓子屋だが、夏になるとかき氷屋に変貌する。店の一角に手回しのかき氷機を置いて、赤、緑、白のシロップをかけて1杯10円だ。
他の駄菓子屋では、冬場になると火鉢の上に鉄板を置き、水で溶いただけの小麦粉に醤油を垂らしたタネを1杯10円で売り“もんじ焼”と称してガキ共の佳きおやつとして他愛なく焼いて食べていた……そんな生地にあれこれの具を入れたのが後に“もんじゃ焼”となったのだろうか。
このところテレビで駄菓子屋が取り上げられているの見て、自分たちの昔を思い出していたのである。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
懐話§昭和四十年代~早弁のお年頃~ [昭和]
[承前]
保育園から中学校までの11年間は給食のお世話になったが、高校に入ったら給食はなく、弁当持参の通学となった。月曜から金曜までの5日間は、あのアルマイト製弁当箱にご飯とおかずを詰めてもらっていたのだ。そして……
食べ盛りである
10時も過ぎれば“腹が……減った”になる。ゆえに授業中が早弁タイムにもなるのである。
だが、我々は猿よりは知恵のある動物ゆえ、発覚するようなリスクは冒さない。安全に早弁が食べられるかどうかを事前にチェックしたのだ。すると、漢文の教師は、教壇から一歩も動くことなく、教室の生徒の机のほうまで見回りなどに来ないことが確認できた。
かくして、彼の授業が早弁たけなわとなったのである。もちろん、教壇から見えないよう、教科書を立てたりとカモフラージュも怠らない。残念ながら前列の連中は、その恩恵に与(あずか)れなかったが。
だが、早弁ができる授業は漢文以外には見当たらず、実のところは2時間目と3時間目の間の休み時間が早弁タイムだったのだ。
そうして早弁をした我々は……昼になれば当然ながら“腹が……減った”である。そこはまあよくしたもので、地元のパン屋の出店が待ち構えていて飢えた餓鬼どもにパンや焼きそば(具なし)を供してくれるおかげで、腹を空かせることなく午後の授業に集中できるのである……あれ?
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
保育園から中学校までの11年間は給食のお世話になったが、高校に入ったら給食はなく、弁当持参の通学となった。月曜から金曜までの5日間は、あのアルマイト製弁当箱にご飯とおかずを詰めてもらっていたのだ。そして……
食べ盛りである
10時も過ぎれば“腹が……減った”になる。ゆえに授業中が早弁タイムにもなるのである。
だが、我々は猿よりは知恵のある動物ゆえ、発覚するようなリスクは冒さない。安全に早弁が食べられるかどうかを事前にチェックしたのだ。すると、漢文の教師は、教壇から一歩も動くことなく、教室の生徒の机のほうまで見回りなどに来ないことが確認できた。
かくして、彼の授業が早弁たけなわとなったのである。もちろん、教壇から見えないよう、教科書を立てたりとカモフラージュも怠らない。残念ながら前列の連中は、その恩恵に与(あずか)れなかったが。
だが、早弁ができる授業は漢文以外には見当たらず、実のところは2時間目と3時間目の間の休み時間が早弁タイムだったのだ。
そうして早弁をした我々は……昼になれば当然ながら“腹が……減った”である。そこはまあよくしたもので、地元のパン屋の出店が待ち構えていて飢えた餓鬼どもにパンや焼きそば(具なし)を供してくれるおかげで、腹を空かせることなく午後の授業に集中できるのである……あれ?
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
広話§街角の有線放送なるもの [昭和]
昔、有線放送なるものありけり……あの、喫茶店とか店舗などで流れてくる音楽ではなく、街頭に立つ電柱に据え付けられたスピーカーから、商店街の情報などが流れてくる、かつての風景である。
音楽を流しつつ“どこそこの商店でセールが行われている”とか、簡単なお知らせばかりでなく、意外にも聴取率が抜群に高いものとして、火災情報があるのだ。
特に空っ風が吹き荒れる冬の時季には、小さな田舎町でもけっこうな火災が頻発して、消防車のサイレンが聞こえると、近所の人間たちが有線放送のスピーカー目指して馳せ参じるのだった。
ややあって「ただいまの出動は○×3丁目付近で発生しました」と具体的に町名などが流れてくる。
そうして翌々日とか、新聞に挟まってくるチラシの中には、ご近所さんからの“近火見舞”なる一枚が入っていたり、その火元からの“出火お詫び”も入ってきたのだ。
昭和の頃、狭い地域のコミュニティはこのようにして維持継続されていたのだが、いつことだったかは記憶にないが、ある時実家に帰ったら、街角からスピーカーは撤去されて、そんな有線放送も消えてしまっていた。
《昭和のトピックス一覧》
音楽を流しつつ“どこそこの商店でセールが行われている”とか、簡単なお知らせばかりでなく、意外にも聴取率が抜群に高いものとして、火災情報があるのだ。
特に空っ風が吹き荒れる冬の時季には、小さな田舎町でもけっこうな火災が頻発して、消防車のサイレンが聞こえると、近所の人間たちが有線放送のスピーカー目指して馳せ参じるのだった。
ややあって「ただいまの出動は○×3丁目付近で発生しました」と具体的に町名などが流れてくる。
そうして翌々日とか、新聞に挟まってくるチラシの中には、ご近所さんからの“近火見舞”なる一枚が入っていたり、その火元からの“出火お詫び”も入ってきたのだ。
昭和の頃、狭い地域のコミュニティはこのようにして維持継続されていたのだが、いつことだったかは記憶にないが、ある時実家に帰ったら、街角からスピーカーは撤去されて、そんな有線放送も消えてしまっていた。
《昭和のトピックス一覧》
懐話§昭和三十年代~映画館~ [昭和]
[承前]
北関東は関東平野の外れの小都市に実家があった。町中の賑やかなあたりで一歩メインの表通りに出ると、それは南北にまっすぐの一本道の商店街が伸びていた。
裏通りはというと、小さな商店、それに居酒屋やバーなどが立ち並ぶ歓楽街だったが、さしたる記憶はない。そんな中に、徒歩2分か3分で行ける映画館が3軒……東宝系、日活系、洋画の3軒である。
ちょくちょく観に出かけていたのは東宝の封切館で、お目当ては円谷監督の特撮物。小学生の頃だったから、今から60年も前のことで、子供料金は50円かそんなもので、それくらいでないと入れるものではなかったはずだ。
その当時は2本立てがお約束で、円谷特撮ともう一本は、森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺が登場する駅前シリーズと社長シリーズ、そして加山雄三の若大将シリーズだった。
森繁たちの喜劇物もそれなりにおもしろかったが、やはり加山雄三の若大将シリーズも大きな楽しみで、円谷特撮と若大将シリーズの時はワクワクして映画館に出かけていって、映画館内の売店で買うのは決まって名糖のホームランバーというアイス……食べ終わったバーに“ホームラン”と焼印があれば、もう一本で“ヒット”の焼印3本でもう一本もらえるのである。

そんな映画館だが、他の日活系と洋画にはあまり行くことがなかったのは、日活系は小学生の趣味ではなく、洋画は何を観ればいいのかわからなかったからだ。
そして小学校を卒業するころには円谷特撮にも飽きてしまい、映画館に足を運ぶこともなくなってしまった。そして既にその3館は影も形もない。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
北関東は関東平野の外れの小都市に実家があった。町中の賑やかなあたりで一歩メインの表通りに出ると、それは南北にまっすぐの一本道の商店街が伸びていた。
裏通りはというと、小さな商店、それに居酒屋やバーなどが立ち並ぶ歓楽街だったが、さしたる記憶はない。そんな中に、徒歩2分か3分で行ける映画館が3軒……東宝系、日活系、洋画の3軒である。
ちょくちょく観に出かけていたのは東宝の封切館で、お目当ては円谷監督の特撮物。小学生の頃だったから、今から60年も前のことで、子供料金は50円かそんなもので、それくらいでないと入れるものではなかったはずだ。
その当時は2本立てがお約束で、円谷特撮ともう一本は、森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺が登場する駅前シリーズと社長シリーズ、そして加山雄三の若大将シリーズだった。
森繁たちの喜劇物もそれなりにおもしろかったが、やはり加山雄三の若大将シリーズも大きな楽しみで、円谷特撮と若大将シリーズの時はワクワクして映画館に出かけていって、映画館内の売店で買うのは決まって名糖のホームランバーというアイス……食べ終わったバーに“ホームラン”と焼印があれば、もう一本で“ヒット”の焼印3本でもう一本もらえるのである。

そんな映画館だが、他の日活系と洋画にはあまり行くことがなかったのは、日活系は小学生の趣味ではなく、洋画は何を観ればいいのかわからなかったからだ。
そして小学校を卒業するころには円谷特撮にも飽きてしまい、映画館に足を運ぶこともなくなってしまった。そして既にその3館は影も形もない。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
懐話§昭和四十年代~懐メロと現役と~ [昭和]
[承前]
もはや“懐メロ”という言葉が存在していないのではないかと考えてしまうのは、半世紀も前の歌手&シンガーが現役でバリバリと歌っていることからわかる。
もちろん、終戦直後の『リンゴの唄』などのような“まさに懐メロ”として存在し続けた歌もあった。もちろん、その頃の世代の人たちは姿を消してしまったが。
だから、半世紀前のヒット曲であっても、明らかに現役としてライブも行えば、作詞作曲など創作活動まで行っている歌手も少なくはない。だから既に懐メロという概念は……気がつけばこの世界から消え去っていたのではないか。
それは例えば、中島みゆきであり、(3人とは同い年の)アルフィーであり、歌手生活50年になろうとする人たちが珍しくもなくゴロゴロ存在しているのである。様々な意味で、彼らの活動は驚異的なのである。
そうして考えたのは、創作活動は終わっていて、過去のヒット曲でライブやテレビ番組に出演する人たちは懐メロ歌手と呼べばいいのではないかと思い至ったのだった。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
もはや“懐メロ”という言葉が存在していないのではないかと考えてしまうのは、半世紀も前の歌手&シンガーが現役でバリバリと歌っていることからわかる。
もちろん、終戦直後の『リンゴの唄』などのような“まさに懐メロ”として存在し続けた歌もあった。もちろん、その頃の世代の人たちは姿を消してしまったが。
だから、半世紀前のヒット曲であっても、明らかに現役としてライブも行えば、作詞作曲など創作活動まで行っている歌手も少なくはない。だから既に懐メロという概念は……気がつけばこの世界から消え去っていたのではないか。
それは例えば、中島みゆきであり、(3人とは同い年の)アルフィーであり、歌手生活50年になろうとする人たちが珍しくもなくゴロゴロ存在しているのである。様々な意味で、彼らの活動は驚異的なのである。
そうして考えたのは、創作活動は終わっていて、過去のヒット曲でライブやテレビ番組に出演する人たちは懐メロ歌手と呼べばいいのではないかと思い至ったのだった。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
懐話§昭和三十年代~マッチ・・・・・・消えた~ [昭和]
[承前]
自分の身の周りからマッチ(燐寸)が姿を消して久しいようだ。

かつては家の中に常備されていて、さまざまな機会で重宝し、なくてはならない存在だったマッチだが、いつ頃からその影が薄くなってしまったのか。
それこそ、街中の喫煙が常態化していた時代、煙草に火をつけるのはマッチかライターで、喫茶店に行けば、店の携帯マッチをサービスでもらえたりもしていた。
とにかく、火をつけないと話にならない時代だったことがよくわかるわけで、それが家の中の石油ストーブであれガスコンロであれ、そうした器具ことごとくが自動着火となり、さらに喫煙比率が低下したことによって、マッチが我々の周りから姿を消すことになったのは間違いない。
もはやマッチを必要とするような何かが家の中にあるものか……考えたら、蠟燭(ろうそく)があるではないか。それだってガスコンロを使えば点火できてしまうが。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
自分の身の周りからマッチ(燐寸)が姿を消して久しいようだ。

かつては家の中に常備されていて、さまざまな機会で重宝し、なくてはならない存在だったマッチだが、いつ頃からその影が薄くなってしまったのか。
それこそ、街中の喫煙が常態化していた時代、煙草に火をつけるのはマッチかライターで、喫茶店に行けば、店の携帯マッチをサービスでもらえたりもしていた。
とにかく、火をつけないと話にならない時代だったことがよくわかるわけで、それが家の中の石油ストーブであれガスコンロであれ、そうした器具ことごとくが自動着火となり、さらに喫煙比率が低下したことによって、マッチが我々の周りから姿を消すことになったのは間違いない。
もはやマッチを必要とするような何かが家の中にあるものか……考えたら、蠟燭(ろうそく)があるではないか。それだってガスコンロを使えば点火できてしまうが。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
用話§トイレの変遷 [昭和]
さて……トイレと呼ぶようになったのはいつ頃からだろう。記憶がはっきりしない。子どもの頃は便所と言っていたし、明治に生まれた祖母に至っては「はばかり」と呼んでいたが“人目をはばかる”という意味だったらしい。
↓英語では“スクワットトイレ”である

実家は小都市の町中にあったが、実家暮らしをしていた当時、下水は通っておらず、近所のお宅ともども“ぼっとん式”なのだった。床下に溜まったブツは、定期的にやって来る業者が回収していった。車が入らない路地裏の家だったので、最初は汲み取って樽に入れて運んでいたが、ヴァキュームカーのホースが長く伸びて回収が簡単になったが、考えてみれば昔は、家々に溜め込んでいたのだな。
そしてようやく下水が開通したのは1970年に入った頃。そこで水洗の工事をして、何とか“並み”の生活環境が実現したのだ。
洋式トイレのある家に住んだのは、就職して2軒目のアパートだったから、人生の半分以上は洋式トイレということになり、さらにシャワー洗浄トイレを設置したのは2005年のことである。そして今やトイレはブラックボックスと化したのである。
《日本のトピックス一覧》
↓英語では“スクワットトイレ”である

実家は小都市の町中にあったが、実家暮らしをしていた当時、下水は通っておらず、近所のお宅ともども“ぼっとん式”なのだった。床下に溜まったブツは、定期的にやって来る業者が回収していった。車が入らない路地裏の家だったので、最初は汲み取って樽に入れて運んでいたが、ヴァキュームカーのホースが長く伸びて回収が簡単になったが、考えてみれば昔は、家々に溜め込んでいたのだな。
そしてようやく下水が開通したのは1970年に入った頃。そこで水洗の工事をして、何とか“並み”の生活環境が実現したのだ。
洋式トイレのある家に住んだのは、就職して2軒目のアパートだったから、人生の半分以上は洋式トイレということになり、さらにシャワー洗浄トイレを設置したのは2005年のことである。そして今やトイレはブラックボックスと化したのである。
《日本のトピックス一覧》
懐話§昭和五十年代~街の定食屋~ [昭和]
[承前]
大学に通っていた頃は町場の定食屋で食べるなど、とてもとてものことで、就職して、少しばかり余裕ができたところで、定食屋なるものに足しげく通う時期があった。
大学を出て最初にアパート暮らしをしていたのは荻窪。駅前には定食屋が何軒か店を出していて、どこも店内は4人掛けテーブルが4つか6つ、それと5人くらい座れるカウンターがという小ぢんまりな店である。
ビールの大瓶を1本、それから冷奴とかほうれん草のお浸しといった小鉢物をつまんでひとしきりだが、そこからさらに日本酒へと進まなかったのは、予算の関係が大きい。
ビールが終わりそうになる頃に注文するのは、焼肉定食とかハムエッグ定食みたいな定食物。ご飯は大中小と選べるが、大学を出た頃でも大盛り辞さずとはならず、ほぼ中盛りで推移していた。ちなみに今は、小盛りオンリー。

暮らし始めて40年を超えた地域は、環境良好ではあるけれど、こと外食に関する限りは質も量も明らかに不足している。だから、町場の定食屋のような存在などは望むべくもない。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
大学に通っていた頃は町場の定食屋で食べるなど、とてもとてものことで、就職して、少しばかり余裕ができたところで、定食屋なるものに足しげく通う時期があった。
大学を出て最初にアパート暮らしをしていたのは荻窪。駅前には定食屋が何軒か店を出していて、どこも店内は4人掛けテーブルが4つか6つ、それと5人くらい座れるカウンターがという小ぢんまりな店である。
ビールの大瓶を1本、それから冷奴とかほうれん草のお浸しといった小鉢物をつまんでひとしきりだが、そこからさらに日本酒へと進まなかったのは、予算の関係が大きい。
ビールが終わりそうになる頃に注文するのは、焼肉定食とかハムエッグ定食みたいな定食物。ご飯は大中小と選べるが、大学を出た頃でも大盛り辞さずとはならず、ほぼ中盛りで推移していた。ちなみに今は、小盛りオンリー。

暮らし始めて40年を超えた地域は、環境良好ではあるけれど、こと外食に関する限りは質も量も明らかに不足している。だから、町場の定食屋のような存在などは望むべくもない。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
活話§高度経済成長の頃 [昭和]
この世に生を受けたのは1954年。第二次世界大戦の敗戦から10年も経っていなかった。まだまだあちこちに戦争の爪痕が残っていたはずである。
既に戦後復興から、いわゆる高度経済成長へと舵を切っていて、そんな中を成長していったのだ。つまり、いい意味でも悪い意味でも経済成長の恩恵を受けた世代であることは間違いない。
まだまだ世間の様子は貧しいものだったが、それでも前を向いて進んでいくそんな姿勢ははっきりしていた。そうしたことの大きな象徴が、東海道新幹線の営業開始であり、東京オリンピックだった。1964年のことである。
そうした中で、小学校から中学、高校と進み、1974年には一浪の後に大学へ入学。就職活動に邁進した頃、景気が少し落ち込んでいたからかどうか、就職難であるように感じつつ、そこをすり抜けて何とか職にありつけたのだ。
バブルが起きたのは、それから数年後のことだったが、個人的にはバブルの恩恵を受けたとは感じられず、そうこうしているうちに膨らみきったバブルが弾けたのは1989年のこと……昭和の終わりとともに。
以来、日本が浮上しないままなのは否定できない事実で、ひたすら昭和の遺産を食い潰していくような30年ではなかったか。
おそらく、政治と経済を司る人間たちの貧困な発想と対応が、これすべての要因ではと思い返すのである。そしてその状況はなおも続いている。
《昭和のトピックス一覧》
既に戦後復興から、いわゆる高度経済成長へと舵を切っていて、そんな中を成長していったのだ。つまり、いい意味でも悪い意味でも経済成長の恩恵を受けた世代であることは間違いない。
まだまだ世間の様子は貧しいものだったが、それでも前を向いて進んでいくそんな姿勢ははっきりしていた。そうしたことの大きな象徴が、東海道新幹線の営業開始であり、東京オリンピックだった。1964年のことである。
そうした中で、小学校から中学、高校と進み、1974年には一浪の後に大学へ入学。就職活動に邁進した頃、景気が少し落ち込んでいたからかどうか、就職難であるように感じつつ、そこをすり抜けて何とか職にありつけたのだ。
バブルが起きたのは、それから数年後のことだったが、個人的にはバブルの恩恵を受けたとは感じられず、そうこうしているうちに膨らみきったバブルが弾けたのは1989年のこと……昭和の終わりとともに。
以来、日本が浮上しないままなのは否定できない事実で、ひたすら昭和の遺産を食い潰していくような30年ではなかったか。
おそらく、政治と経済を司る人間たちの貧困な発想と対応が、これすべての要因ではと思い返すのである。そしてその状況はなおも続いている。
《昭和のトピックス一覧》
懐話§昭和三十年代~学校給食~ [昭和]
[承前]
実家のあった自治体だが、その当時けっこう財政的には潤っていたようで、小学校に入った時には既に学校給食が日常化していた。
当初は、それぞれの学校内に給食室の設備があって、それぞれで調理が行われていたが、数年後には個別調理ではなくなり、給食センターで集中調理が行われるようになったのである。
小学校6年間では、牛乳ではなく、お湯に溶かした脱脂粉乳を飲んでいたがこれが不味い……多くの生徒は残していたが、それでも何とか飲んでいた。
その代わりおかずが食べられない。中華風と思われる“八宝菜”らしき料理が出てくるが、何だか野菜のごった煮にトロミをつけた得体のしれない代物で、生徒の評判は最悪だったのだ。
そして米飯食ではなく、食パンとコッペパンが一日おき交互に供されれていた。バターではなくマーガリンだったし、食パンはまだしも、コッペパンはぼそぼそしていて半分くらいは残したのである。
中学校では、瓶入りの牛乳が出てきて「おお!」っと喜んだが、脱脂粉乳と生乳のハーフ&ハーフだと知ったのは後になってのこと。
この牛乳が苦手な女子生徒も少なくなく、男子が毎日3本くらいを引き受けてぐびぐび飲んだおかげかどうか、身長も伸びてけっこう丈夫になったような気がしたのだが。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
実家のあった自治体だが、その当時けっこう財政的には潤っていたようで、小学校に入った時には既に学校給食が日常化していた。
当初は、それぞれの学校内に給食室の設備があって、それぞれで調理が行われていたが、数年後には個別調理ではなくなり、給食センターで集中調理が行われるようになったのである。
小学校6年間では、牛乳ではなく、お湯に溶かした脱脂粉乳を飲んでいたがこれが不味い……多くの生徒は残していたが、それでも何とか飲んでいた。
その代わりおかずが食べられない。中華風と思われる“八宝菜”らしき料理が出てくるが、何だか野菜のごった煮にトロミをつけた得体のしれない代物で、生徒の評判は最悪だったのだ。
そして米飯食ではなく、食パンとコッペパンが一日おき交互に供されれていた。バターではなくマーガリンだったし、食パンはまだしも、コッペパンはぼそぼそしていて半分くらいは残したのである。
中学校では、瓶入りの牛乳が出てきて「おお!」っと喜んだが、脱脂粉乳と生乳のハーフ&ハーフだと知ったのは後になってのこと。
この牛乳が苦手な女子生徒も少なくなく、男子が毎日3本くらいを引き受けてぐびぐび飲んだおかげかどうか、身長も伸びてけっこう丈夫になったような気がしたのだが。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
懐話§昭和三十年代~貸本屋~ [昭和]
[承前]
かつて、町内に“貸本屋”の一軒、二軒があった時代を覚えている。実際によく借りてもいた。10円とか20円で、主に漫画の単行本を数日借りることができた。
昭和三十年代当時月刊漫画誌はあったが、ちょうど過渡期にあったようで、月刊の少年画報を購読しながら、その合間に貸本屋を利用していたのだ。
町内に一軒、二軒と書いたが、住んでいた場所が町中だったから、それだけ何軒も貸本屋があったのだとは思う。二軒が同じ品揃えということはなく、卸元が違っているので、違う品揃えになるようである。
記憶ははっきりしないが、作者は当時でも知られた人たちというわけではなく、多くは無名の漫画家と言ってよかったかもしれない……中にはそこから雑誌連載をするようになった人もいたようだが。
そんな町の貸本屋が気がつけば姿を消したのは、1959年(昭和34年)3月17日という同じ日に、週刊漫画雑誌の少年サンデーと少年マガジンが創刊されたのとほぼ同じタイミングなのだった。
……今でも、貸本屋の引き戸を開けて店に入った時の饐えた匂いが記憶から甦ってくるのである。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
かつて、町内に“貸本屋”の一軒、二軒があった時代を覚えている。実際によく借りてもいた。10円とか20円で、主に漫画の単行本を数日借りることができた。
昭和三十年代当時月刊漫画誌はあったが、ちょうど過渡期にあったようで、月刊の少年画報を購読しながら、その合間に貸本屋を利用していたのだ。
町内に一軒、二軒と書いたが、住んでいた場所が町中だったから、それだけ何軒も貸本屋があったのだとは思う。二軒が同じ品揃えということはなく、卸元が違っているので、違う品揃えになるようである。
記憶ははっきりしないが、作者は当時でも知られた人たちというわけではなく、多くは無名の漫画家と言ってよかったかもしれない……中にはそこから雑誌連載をするようになった人もいたようだが。
そんな町の貸本屋が気がつけば姿を消したのは、1959年(昭和34年)3月17日という同じ日に、週刊漫画雑誌の少年サンデーと少年マガジンが創刊されたのとほぼ同じタイミングなのだった。
……今でも、貸本屋の引き戸を開けて店に入った時の饐えた匂いが記憶から甦ってくるのである。
[続く]
《昭和のトピックス一覧》
冒話§保育園まで徒歩八分 [昭和]
2年保育の保育園に通っていた。以前も書いたようにプロテスタント系で、朝にお祈り、昼ご飯でお祈りと、訳など何も分からずにむにゅむにゅ唱えていたのだった。
毎朝、そんな保育園へ通っていたわけだが、まずは家からすぐの友だちの家まで迎えに行って一緒にてくてくと歩いて行ったのだ。グーグルマップで調べたら大人の足で約8分だから、もう少し余計にかかっていたかもである。
それにしてもと思うのは、60年前という“のどか”な地方都市で、五歳児が親の目を離れて自分たちの足で通園していたということだ。
もちろん車の通行量など今とは比較になどならなかったから、親たちの認識としても子どもだけで通わせても大丈夫と判断したのだろう。
今時のどこかの県だったら“児童虐待”とやらで通報されるような案件ではなかったかと思ってしまうが、当人たちはどこ吹く風で、時には途中にある町工場でコンクリートブロックを作っている様子を眺めてみたり、呑気そのもので通っていたのである。
そうして今の我が家の周辺は、ほとんどの幼稚園や保育園がマイクロバスでの送迎をしていて、徒歩で通園する時も親が付き添ってというのが普通に行われているのだ。
《昭和のトピックス一覧》
毎朝、そんな保育園へ通っていたわけだが、まずは家からすぐの友だちの家まで迎えに行って一緒にてくてくと歩いて行ったのだ。グーグルマップで調べたら大人の足で約8分だから、もう少し余計にかかっていたかもである。
それにしてもと思うのは、60年前という“のどか”な地方都市で、五歳児が親の目を離れて自分たちの足で通園していたということだ。
もちろん車の通行量など今とは比較になどならなかったから、親たちの認識としても子どもだけで通わせても大丈夫と判断したのだろう。
今時のどこかの県だったら“児童虐待”とやらで通報されるような案件ではなかったかと思ってしまうが、当人たちはどこ吹く風で、時には途中にある町工場でコンクリートブロックを作っている様子を眺めてみたり、呑気そのもので通っていたのである。
そうして今の我が家の周辺は、ほとんどの幼稚園や保育園がマイクロバスでの送迎をしていて、徒歩で通園する時も親が付き添ってというのが普通に行われているのだ。
《昭和のトピックス一覧》
暦話§昭和の人ですが何か? [昭和]
祖母は、明治~大正~昭和と生きてこの世を去ったが、昭和~平成~令和で我が人生は終わりそうだ。
1954年(昭和29年)生まれ、昭和が終わったのが1989年(昭和64年~平成元年)だから、昭和の半分以上を生きてきたということになる。
昭和が色濃く染み込んでいるのか……平成の色、令和の色なるものが何であるのか、皆目見当がつかないけれど、まだまだモノクロームの世界だったような、それが昭和であるような気がしないでもない。
1970年代頃にデビューして、半世紀近くを歌い続けている人たちがいる。例えばオフコース、サザンオールスターズ、あるいはアルフィーなどなどのグループがそうだろう。昭和の二十年代、三十年代にヒットを飛ばした人たちは“懐メロ”と呼ばれて、そんなテレビ番組のお座敷に呼ばれたりするが、上に挙げた人たちは、今だに“現役”として、アルバムをリリースし、全国公演のライブも展開している。
同じ昭和の人たちであっても、こうして20年足らずで“歴史”になった人たちもいれば、半世紀が経っても“今”であり続ける人たちもいる不思議……60年を超える昭和という時間の中は、様々な要素が絡み合って“淘汰”が繰り返されたと感じるのだが。
追記:日常、元号を使うことはほとんどない。理由は簡単で3回も変わってしまった今、いちいち元号でどうこうするのは、老人にとって煩わしい以外の何物でもない。
《昭和のトピックス一覧》
1954年(昭和29年)生まれ、昭和が終わったのが1989年(昭和64年~平成元年)だから、昭和の半分以上を生きてきたということになる。
昭和が色濃く染み込んでいるのか……平成の色、令和の色なるものが何であるのか、皆目見当がつかないけれど、まだまだモノクロームの世界だったような、それが昭和であるような気がしないでもない。
1970年代頃にデビューして、半世紀近くを歌い続けている人たちがいる。例えばオフコース、サザンオールスターズ、あるいはアルフィーなどなどのグループがそうだろう。昭和の二十年代、三十年代にヒットを飛ばした人たちは“懐メロ”と呼ばれて、そんなテレビ番組のお座敷に呼ばれたりするが、上に挙げた人たちは、今だに“現役”として、アルバムをリリースし、全国公演のライブも展開している。
同じ昭和の人たちであっても、こうして20年足らずで“歴史”になった人たちもいれば、半世紀が経っても“今”であり続ける人たちもいる不思議……60年を超える昭和という時間の中は、様々な要素が絡み合って“淘汰”が繰り返されたと感じるのだが。
追記:日常、元号を使うことはほとんどない。理由は簡単で3回も変わってしまった今、いちいち元号でどうこうするのは、老人にとって煩わしい以外の何物でもない。
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悼話§遠山一さん(ゾウさん) [昭和]
ダークダックスのメンバーで一人だけ残っていた遠山一が逝去した。一度だけダークダックスが歌うのを聴く機会があった……ちょうど半世紀ほど前、何だかの催しの中で、一曲か二曲歌ったという記憶。
メンバー全員が脂の乗った四十代半ばにという頃だったが、なぜかゾウさんの低音が響かなくなっていて、そんな年齢なのかと思った。
ダークダックス、デューク・エイセス、ボニージャックスと、昭和を象徴するコーラスグループのトップだったのがダークダックスである。享年九十三
合掌
《追悼のトピックス一覧》
メンバー全員が脂の乗った四十代半ばにという頃だったが、なぜかゾウさんの低音が響かなくなっていて、そんな年齢なのかと思った。
ダークダックス、デューク・エイセス、ボニージャックスと、昭和を象徴するコーラスグループのトップだったのがダークダックスである。享年九十三
合掌
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