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活話§高度経済成長の頃 [昭和]

この世に生を受けたのは1954年。第二次世界大戦の敗戦から10年も経っていなかった。まだまだあちこちに戦争の爪痕が残っていたはずである。

既に戦後復興から、いわゆる高度経済成長へと舵を切っていて、そんな中を成長していったのだ。つまり、いい意味でも悪い意味でも経済成長の恩恵を受けた世代であることは間違いない。

まだまだ世間の様子は貧しいものだったが、それでも前を向いて進んでいくそんな姿勢ははっきりしていた。そうしたことの大きな象徴が、東海道新幹線の営業開始であり、東京オリンピックだった。1964年のことである。

そうした中で、小学校から中学、高校と進み、1974年には一浪の後に大学へ入学。就職活動に邁進した頃、景気が少し落ち込んでいたからかどうか、就職難であるように感じつつ、そこをすり抜けて何とか職にありつけたのだ。

バブルが起きたのは、それから数年後のことだったが、個人的にはバブルの恩恵を受けたとは感じられず、そうこうしているうちに膨らみきったバブルが弾けたのは1989年のこと……昭和の終わりとともに。

以来、日本が浮上しないままなのは否定できない事実で、ひたすら昭和の遺産を食い潰していくような30年ではなかったか。

おそらく、政治と経済を司る人間たちの貧困な発想と対応が、これすべての要因ではと思い返すのである。そしてその状況はなおも続いている。

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懐話§昭和三十年代~学校給食~ [昭和]

[承前]

実家のあった自治体だが、その当時けっこう財政的には潤っていたようで、小学校に入った時には既に学校給食が日常化していた。

当初は、それぞれの学校内に給食室の設備があって、それぞれで調理が行われていたが、数年後には個別調理ではなくなり、給食センターで集中調理が行われるようになったのである。

小学校6年間では、牛乳ではなく、お湯に溶かした脱脂粉乳を飲んでいたがこれが不味い……多くの生徒は残していたが、それでも何とか飲んでいた。

その代わりおかずが食べられない。中華風と思われる“八宝菜”らしき料理が出てくるが、何だか野菜のごった煮にトロミをつけた得体のしれない代物で、生徒の評判は最悪だったのだ。

そして米飯食ではなく、食パンとコッペパンが一日おき交互に供されれていた。バターではなくマーガリンだったし、食パンはまだしも、コッペパンはぼそぼそしていて半分くらいは残したのである。

中学校では、瓶入りの牛乳が出てきて「おお!」っと喜んだが、脱脂粉乳と生乳のハーフ&ハーフだと知ったのは後になってのこと。

この牛乳が苦手な女子生徒も少なくなく、男子が毎日3本くらいを引き受けてぐびぐび飲んだおかげかどうか、身長も伸びてけっこう丈夫になったような気がしたのだが。
                               [続く]

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懐話§昭和三十年代~貸本屋~ [昭和]

[承前]

かつて、町内に“貸本屋”の一軒、二軒があった時代を覚えている。実際によく借りてもいた。10円とか20円で、主に漫画の単行本を数日借りることができた。

昭和三十年代当時月刊漫画誌はあったが、ちょうど過渡期にあったようで、月刊の少年画報を購読しながら、その合間に貸本屋を利用していたのだ。

町内に一軒、二軒と書いたが、住んでいた場所が町中だったから、それだけ何軒も貸本屋があったのだとは思う。二軒が同じ品揃えということはなく、卸元が違っているので、違う品揃えになるようである。

記憶ははっきりしないが、作者は当時でも知られた人たちというわけではなく、多くは無名の漫画家と言ってよかったかもしれない……中にはそこから雑誌連載をするようになった人もいたようだが。

そんな町の貸本屋が気がつけば姿を消したのは、1959年(昭和34年)3月17日という同じ日に、週刊漫画雑誌の少年サンデーと少年マガジンが創刊されたのとほぼ同じタイミングなのだった。

……今でも、貸本屋の引き戸を開けて店に入った時の饐えた匂いが記憶から甦ってくるのである。
                               [続く]

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冒話§保育園まで徒歩八分 [昭和]

2年保育の保育園に通っていた。以前も書いたようにプロテスタント系で、朝にお祈り、昼ご飯でお祈りと、訳など何も分からずにむにゅむにゅ唱えていたのだった。

毎朝、そんな保育園へ通っていたわけだが、まずは家からすぐの友だちの家まで迎えに行って一緒にてくてくと歩いて行ったのだ。グーグルマップで調べたら大人の足で約8分だから、もう少し余計にかかっていたかもである。

それにしてもと思うのは、60年前という“のどか”な地方都市で、五歳児が親の目を離れて自分たちの足で通園していたということだ。

もちろん車の通行量など今とは比較になどならなかったから、親たちの認識としても子どもだけで通わせても大丈夫と判断したのだろう。

今時のどこかの県だったら“児童虐待”とやらで通報されるような案件ではなかったかと思ってしまうが、当人たちはどこ吹く風で、時には途中にある町工場でコンクリートブロックを作っている様子を眺めてみたり、呑気そのもので通っていたのである。

そうして今の我が家の周辺は、ほとんどの幼稚園や保育園がマイクロバスでの送迎をしていて、徒歩で通園する時も親が付き添ってというのが普通に行われているのだ。

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暦話§昭和の人ですが何か? [昭和]

祖母は、明治~大正~昭和と生きてこの世を去ったが、昭和~平成~令和で我が人生は終わりそうだ。

1954年(昭和29年)生まれ、昭和が終わったのが1989年(昭和64年~平成元年)だから、昭和の半分以上を生きてきたということになる。

昭和が色濃く染み込んでいるのか……平成の色、令和の色なるものが何であるのか、皆目見当がつかないけれど、まだまだモノクロームの世界だったような、それが昭和であるような気がしないでもない。

1970年代頃にデビューして、半世紀近くを歌い続けている人たちがいる。例えばオフコース、サザンオールスターズ、あるいはアルフィーなどなどのグループがそうだろう。昭和の二十年代、三十年代にヒットを飛ばした人たちは“懐メロ”と呼ばれて、そんなテレビ番組のお座敷に呼ばれたりするが、上に挙げた人たちは、今だに“現役”として、アルバムをリリースし、全国公演のライブも展開している。

同じ昭和の人たちであっても、こうして20年足らずで“歴史”になった人たちもいれば、半世紀が経っても“今”であり続ける人たちもいる不思議……60年を超える昭和という時間の中は、様々な要素が絡み合って“淘汰”が繰り返されたと感じるのだが。

追記:日常、元号を使うことはほとんどない。理由は簡単で3回も変わってしまった今、いちいち元号でどうこうするのは、老人にとって煩わしい以外の何物でもない。

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悼話§遠山一さん(ゾウさん) [昭和]

ダークダックスのメンバーで一人だけ残っていた遠山一が逝去した。一度だけダークダックスが歌うのを聴く機会があった……ちょうど半世紀ほど前、何だかの催しの中で、一曲か二曲歌ったという記憶。

メンバー全員が脂の乗った四十代半ばにという頃だったが、なぜかゾウさんの低音が響かなくなっていて、そんな年齢なのかと思った。

ダークダックス、デューク・エイセス、ボニージャックスと、昭和を象徴するコーラスグループのトップだったのがダークダックスである。享年九十三

合掌

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忍話§父は従軍した [昭和]

昭和の年数と年齢が同じだった父は、第二次世界大戦の終戦2年ほど前に、召集令状を受け取り“陸軍”に応召した。18歳とかそんな年齢で、それまで行ったこともない大阪は枚方まで行かされたようだ。

そこでどんなことをしていたのか、詳細なことは聞いたことがない。自慢話をしばしばしていた人だから、話したければ自分のほうから話し出しただろうし、そうすればこちらからも聞きたいことが思いついたかもしれない。

枚方は大阪の府心からは少しばかり離れていたから、米軍の空襲に遭うこともなく過ごしていたと思われる。軍隊生活がどんなものだったかについてもまた知る由もない。

上等兵で終戦を迎え、二十歳になった秋には群馬まで復員できたようだ。幸いにして実戦に直面することもないまま、無傷で帰郷してきたわけで、これ以上の僥倖などなかっただろう。

戦後は手先が器用だったからか、そうした仕事に携わったが、なかなか腰が座ってくれず、しばしば職を変わることを余儀なくされて、本人にとっても不本意なことだっただろう。結婚して子どもが生まれても、勤めた会社が潰れたりして、ようよう定職につけたのは40歳になったばかりの頃。そこから定年退職するまで20年ちょっとを勤めあげた。

復員して以来、オンボロ長屋に61年もの間住み続け、亡くなったのは2006年11月のことである。

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タグ:昭和 私事 戦争
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過話§上京五十年~広い通りだとばかり~ [昭和]

地方小都市のど真ん中に暮らしていた。広い表通りから入った先の道は狭いものだが、半世紀以上前のことゆえ、まだまだ車の通行もさほど多いわけではなかった。

だが、小学生や中学生だった身にしてみれば、そんな道でも十分に広いのだという認識をしていたが、帰省するごとに実家付近の道の見た目がどんどん狭くなっていくように見えてしまうのである。

南北に並行して走っている2本の道があるのだが、そこは高校に通うのに自転車を飛ばしていった道で、車も行き交っていたいたはずだが、我が物顔で漕ぎまくっていたのだ。だが、その道は想像していた以上にずっとはるかに狭い道だったのだ。

そんな道が、それぞれ一方通行の狭い道だと気がついたのは、もう20年以上前のことで、それをグーグルのストリートビューで確認してみれば、車一台がやっと通れて、歩行者が肩身の狭い思いをするように道だったのである。

十代の視線と二十代以降の視線がどれほどの差異を生み出していたものか、しみじみと実感した道の風景なのだった。

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汲話§井戸在りしこと [昭和]

地方都市の本通りから入ったところの我が家及び両隣の長屋には、上水道も下水道も引かれてはいなかった。昭和三十年代までの地方都市におけるインフラ整備などは、その程度の進捗だったことがよくわかるというものだ。

それでどうしていたかといえば、3軒が共同で一つの井戸を使っていたのである。おおよそ昭和三十年代の終わり頃まで、井戸水による炊事洗濯その他諸々が行われていたのだった。ちなみにその当時、町内には数か所の井戸があって、それぞれ近隣の住人が管理利用していた。

今思えばずいぶん乱暴な話だが、保健所のような公的機関による水質検査など、一度として行われたことはなかったと記憶していて、よくもまあ腹を壊さなかったものだとは思う。

というわけで、井戸水の“産湯”を浸かった時から数えて10年、井戸水を飲み続けたのである。巷間言うとおりで“冬温かく、夏冷たい”井戸水がどれほど重宝したかといえば冷蔵庫のない我が家では、例えば夏場に西瓜やら胡瓜を冷やすのに使ったりしていた。

年に一度くらい、井戸の木蓋を開けて中を掃除していたのだが、上から覗くと真っ暗な空間が伸びていて、子ども心に怖かった記憶だ。

それにしても、そんな町中にあって、単に裏店だったから、上水道のラインから抜け落ちてしまっていたからなのか、ようやく自治体が気がついたのかどうか、各戸に上水道が引かれたのは東京オリンピックの年のことで、さらに遅れに遅れて下水道が引かれたのは、1970年のことである。

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懐話§昭和四十年代~個人情報じゃじゃ漏れ~ [昭和]

[承前]

昭和の御代……個人情報の保護などなかったというお話。

少年漫画週刊誌を読んでいたら、プロ野球選手についての紹介ページの中で人気選手たちの住所が紹介されていたのを読んだ記憶がある。現在は田園調布の豪邸に住んでいる往年の超有名人気選手が、世田谷区上北沢に住んでいると知ったのはその紹介ページからだった。

かくの如く、著名人であっても彼らの住所が雑誌の中で紹介されたりして、さぞやファンレターの類で郵便受けが溢れ返っていたことだろう。

そうして、そんな個人情報じゃじゃ漏れが終わりに近づいた頃のムック本を持っている。

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某音楽関連出版社が発行した日本の音楽家を網羅したもので、発行されたのは1960年代の終わり頃のことだったが、生年月日はおろか、住所から電話番号まで記載されていたことには、その当時でも驚いた記憶があって、これまた当事者はずいぶんと迷惑したのではないか。

ちなみに、ざっと見返してみたが、住所記載されていない、きちんと断ったような人は見当たらず、半世紀ちょっと前の個人情報の扱いとか認識の程度は、こんなものだったのかと、改めて驚かされたのだった。

ちなみに例として挙げたピアニストの野島稔は、掲載当時二十代半ばで新進気鋭、将来の日本のエースとして期待されていて、寸評もまたそうした空気を反映していた……昨年5月、76歳で逝去。
                               [続く]

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懐話§昭和三十年代~かき氷・・・・・・どう?~ [昭和]

[承前]

そういえば久しくかき氷など食べていない。最後に食べたのがいつだったか遠い昔過ぎて、まったく記憶にない。

そもそも我がガキの頃、かき氷などは駄菓子屋の領域で、駄菓子が並んでいる店の一角にテーブル一つに椅子3つ……冬になると文字焼きの鉄板が置かれたりする場所なのだが。

そこで、店のおばさんが手回しのかき氷器でシャキシャキと氷を削るのだ。そうして蜜はせいぜい3種類くらいしかない。赤いいちご、緑のメロン、そして白蜜である。で、かけてもらうのは決まって真っ赤なやつで、食べ終わると舌が真っ赤っ赤になるのもまたお約束だったのである。

今時のかき氷のようにこんもりうず高くというわけではなく、ちょいとこんもり程度で蜜も2杯くらいと慎ましやか。

だが、エアコンなどあるわけもない真夏の半露店で食べるかき氷ほどうまいものはない。エアコンが効いて、洒落た甘味の店で食べるかき氷を、あまりうまそうだとは感じない理由はそのあたりにありそうだ。
                               [続く]

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過話§上京五十年~トイレットペーパー~ [昭和]

代々木の三畳間で下宿生活を始めて、半年経ったところで起きたのが、あのトイレットペーパー騒動である。

10月に第四次中東戦争が勃発、そこでOPEC加盟産油国のうちペルシア湾岸の6ヶ国が原油価格を上げた。

そんな中、もちろん何の根拠もない“紙が不足する”という噂が流れ広がって、あっという間にトイレットペーパーが店頭から消えてしまったのだ。当時の下宿にテレビは置いておらず、ラジオのニュースで聞き知っていたはずだが、実感がなかったのは下宿の共同トイレにはペーパーが備え付けられていたのである。

それ以外にも物価の高騰は起きていたと思うが、乏しい仕送りの中で必死に安い食料品を求めてスーパーのハシゴをしていたので、辛うじて切り抜けられたのかもしれない。

その後、トイレットペーパーの不足は、翌1974年春頃まで続くことになったが、幸いにして大きな影響を被らずに済んだ。

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顧話§今日の歴史~川の流れのように~ [昭和]

1988年4月11日、美空ひばりの東京ドーム「不死鳥コンサート」開催。

1988年3月17日にオープンした東京ドームで、柿落としライブコンサートを行ったのが美空ひばりだった。

1985年頃から体調を崩し、徐々に悪化していった中の言わば“決死的”なコンサートが強行されたが、実際はとてもステージに立てるような状態などではなかったのだ。

そして一年余後、1989年6月24日に逝去。享年五十二である。

1989年、昭和天皇の死で昭和が終わった。1989年2月には手塚治虫が逝去、昭和に活躍した不世出の歌手と漫画家が相次いで逝ってしまった。

追記:美空ひばりのコンサート以前にも、ミック・ジャガーやBOØWYなどなどが、3月中にコンサートを行っている。

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懐話§昭和三十年代~傷痍軍人~ [昭和]

[承前]

小学生の頃、大きな縁日に行くと必ず見かけたのが“傷痍軍人”と呼ばれる人たちだった。四肢の何らかを失った2、3人で、ハーモニカを吹いたりしてお金を求めるのだった。

終戦の前年に応召した父は、彼らを見るたびに「傷痍軍人は軍人恩給を受けているはずだから」とお金を渡すようなことはせず、さらに「中には、ヤクザあたりが金を稼いでいて、居酒屋で酒を呑んでいるところを見た」などとも言っていたことを思い出す。

それが本当のことかどうか、1970年代に入ると傷痍軍人の姿を見ることはなくなったが、年齢を考えればまだ五十代くらいだったはずだから、白い衣装で街に出ていたと考えられなくもないが、気がつけば消滅していたのだ。

彼らが本物であれ偽であれ、子ども心に戦争の悲惨さを植え付けてくれたことだけは間違いない。
                               [続く]

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転話§電話のダイヤルやチャンネルを回す [昭和]

電話のダイヤルを回し、テレビのチャンネルを回していた時代があった。

電話のほうは、1970年代に入る頃“プッシュホン”がスタートしてテンキーを押す電話の先駆けとなり、1980年代にはダイヤル電話はほぼ駆逐されてしまったのである。

確か結婚した1982年の電話は黒いダイヤル式だったが、既にその頃から演奏会のチケットの電話予約が始まっていて、リダイヤルが必須アイテムであるがゆえに、プッシュホンに替えたのだ。

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それにしても、ずいぶん後になるまで長いこと、上のダイヤル式のアイコンが主流で使われていたのだったが、子どもたちや若い世代には何がなんだかわからなかったのではないか。

そして、テレビのチャンネルである。1960年代の頃には有線や超音波のリモコンはあったが、普及することはなく、改めてテレビのリモコンが一般的に普及しだしたのは2000年代前後ではなかったか。そこから地上デジタルのハイビジョンに繋がっていく。

今やテレビにリモコンは欠かせない存在で、かつての、いちいちテレビまでいってチャンネルをガチャガチャ回すようなことはすっかりなくなった。

電話のダイヤルやテレビのチャンネルを回すというのは、昭和世代の言葉でしかなく、もうとっくの昔に死語になっていたのである。

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