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経話§念仏講~十三仏を唱えて~ [宗教]

今世紀に入った頃にはすっかり廃れてしまっていたが、実家があったあたりでは、葬式が行われた日の夜に“念仏講”が行われていた。

遺族、親類、有志が集まって、位牌の置かれた祭壇の前で、十三仏の名前を唱えるのだ。祭壇の後ろには十三仏の軸を掛ける。

そして参列者の中から交代で“僧侶”役が祭壇の前に座って唱えるのは……

不動~釈迦~文殊~普賢~地蔵~弥勒~薬師~観音~勢至~阿弥陀~阿閻~大日~虚空蔵

……で、これを13回1クールで全員が唱え、13回目の最後に“南無十三仏~南無阿弥陀~南無阿弥陀仏~南阿弥陀~”で締めとする。

その間、何人かが祭壇に供えられらている水を手渡しで頻繁に替えるのだがそれは、三途の川へと歩いている死者が熱さで喉が渇かないようにと、常に冷たい水を飲んでもらうためなのだ。

最後に十三仏を唱えたのは、確か30年近く前に行われた叔母の葬儀の後のことで、世紀が明けた2006年に父が死んだ時は、十三仏をという声は出ずで、そういう意味では、自分たちが最後の念仏講世代だったのかと思った。

念仏講にはもう一つあって、自宅で葬儀が行われている日中に太鼓だったかの合図があると、近所の子供たちがわらわらと集まってくるのだが、それは葬式を出した家が出す、紙袋に入った駄菓子をもらうためだったのである。

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週話§土曜枯寂~旧盆~ [宗教]

明日からお盆である……実家があったあたりは8月の旧盆だった。

父親と弟の三人で、墓に“お迎え”に行く。春彼岸以来なので、水をざぶざぶ使って墓石を洗い、せいせいと連れ帰って来る。家には茄子などに割り箸を刺して動物に見立てたものが用意されているのがお盆のお約束みたいなものだったのだ。

まあ、それほど信心深い家でもなかったが、昭和の頃でもそれくらいは風習として少しくらいは残っていたのだ。そうしたあれこれを主導していたのは明治生まれの祖母。素朴な信仰心でもって、家の中の司祭的役割を果たしていたのである。

別に信仰心を押し付けるようなこともなく、至極淡々と事に当たっていた。そんな祖母は七十代に入るあたりで認知症となってしまったが、それでも仏壇や神棚の差配は続けていたのだ。

その後、数年ほどで上京。すっかり田舎の風習とは縁遠くなってしまったのだった。

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週話§土曜枯寂~我が宗教なるもの~ [宗教]

一応は実家のあった町の寺に家の墓はある。ゆえに、第三者から見れば、あるいは統計上は仏教徒として扱われていることだろう。

だが、自分としてはどうなのかと問われれば“無宗教”という立ち位置だと任じている。ちなみに“無神論”と“無宗教”は別物である。神様がいるかどうかということとは別に、神社で手を合わせもするし、そのあたり微妙な立ち位置である。

定年退職の年に、3年ほど応募し続けていた都営霊園の散骨墓地に夫婦二人そろって当選した。よって実家の墓には入らない。もちろん、戒名などもなく、無宗教で埋葬されるのだ。

死後の世界がどうだとかこうだとか、その類のこともほとんど信じることはしないし、自分自身の意識が消えた後は“無”でしかない。

そりゃあ、宗教によって心の平安を保つことができる人もいるだろう。だが始末の悪いのもまた宗教で、特に新興宗教の性質(たち)の悪さについては、もはや宗教などではなく、人の弱みにつけ込んで単に金をせびり取るだけの機関であると断じるしかないのである。

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拝話§お地蔵様の縁日~毎月二十四日~ [宗教]

通っていた小学校と中学校の間あたりに、正式名“日限地蔵尊”……通称がお地蔵様と呼ばれて親しまれていた小さな寺が、今でもある。別に信者でも何でもないのだが、親しみを覚えていたのは、毎月24日に縁日が行われて、地元民で賑わっていたのだ。

存在を知ったのは小学生の頃で、たぶん祖母に連れて行かれたのではないだろうか。その後は、友達と行ったり、一人で行ったりと、小学生にとってのいい遊び場なのだった。

小さい寺院の縁日のゆえ、露店屋台も10軒足らずしか並んでいなかったが、小遣いが潤沢にあるわけでもなく、買うものも限られていたという記憶だ。

屋台で何が売られていたかというと、セルロイド製のキャラクターお面とか樟脳を付けて走らせるセルロイドの船といったおもちゃの類、食べ物は、お約束のりんご飴や焼きそば、そしてワタシ的お気に入りが“ハッカパイプ”で、乏しい小遣いで使うのは、決まってハッカパイプである。

そんな月に一度のささやかなお楽しみだが、中学に入るとお地蔵様の存在などすっかり失って、他のあれこれに興味が移っていった……中学校の登校路からすぐのところにあったのに。

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タグ:宗教 仏教 縁日
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拝話§“おりん”とは何でしょう? [宗教]

仏壇の正面に置かれている金属製のお碗の形をした鳴らし物の名前をずっと知らずにいた。

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その鳴らしものに“おりん”という名称が付いているのだと知ったのは、定年退職の10年前、2005年のことである。ちょっと調べ物をしていて、とある文章の中に“仏壇のおりんを鳴らす”という件があって、それと知ったのである。

もちろん、仏壇があったのは18歳まで過ごした実家で、それ以来縁遠い存在になっていたこともあって、おりんのことなど気にかけることなどありようはずもなかった。

そうして、すぐにぱっと思い出せないが、身近な存在の中で名称を知らずに過ごしている物がまだまだあるのではないかと思うのだ……思い出すようなことがあったら、またエントリーを作ってまとめてみよう。

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週話§日曜恬淡~日曜学校に通っていた~ [宗教]

通っていた保育園はプロテスタントの教会に併設されていたので、卒園した後、小学校から中学校くらいまで、日曜朝の日曜学校に通っていた。

保育園時代にお祈りの作法とか讃美歌いくつかを歌い覚えていたので、すんなり通い続けていたが、自分自身の中に、キリスト教がとか宗教心がどうたらこうたらとか、そのあたりは希薄だったような記憶である。

むしろ、イエス・キリストの人となりのようなところに自分なりに焦点をあてていたような気がしないでもない。

ついでに書くなら、元来宗教心が薄いようで、寺であれ神社であれ、前を通ることがあっても、素っ気なく通り過ぎてしまうのみ。

その後、ヨーロッパのキリスト教圏を頻繁に旅行するようになったけれど、無闇やたらに教会堂の中に入るようなことはしない。日曜学校に通いはしたが、シンパシーは感じながらも、結局はキリスト教徒になることはなく、それゆえ“異教徒”としては遠慮するだけのことである。

いずれにしても、今の自分が仏教徒なのか、神道の徒なのか、キリスト教徒なのか、こんな年齢になってもわからないのだ。

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