SSブログ

週話§日曜有閑~1950年代生まれは既に~ [昭和]

気がつけば1950年代生まれの人間たちが、社会の表舞台から消えつつあるようだ。

もちろん、出世して役員だとか経営者に登り詰めた人たちは別だが、大多数の宮仕えの人間は、定年退職で会社から退いていっていると思われる。

ということは、社会の主流既に1960年代から70年代生まれに移行しているということか。自分たちがそういう位置にあったのは、もう20年も前のことになってしまった。

さらに、昭和生まれ最後の頃に大学を出て社会人となった人間も、定年という区切りが視野に入っているということに気がつく。

時は流れ……と書いてみると、アポリネールの『ミラボー橋』という詩を思い出す。堀口大學の訳で。

日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る

うーん“私は残る”ことはないなあ。間違いなく、時とともに流れていく。

《日常のトピックス一覧》
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

遊話§歓楽街で生まれ育ち [昭和]

関東平野北東端のしがない地方都市の実家で18歳まで暮らしていた。何かと便のいい町の中心部の、今にも倒れそうなおんぼろ借家に住んでいた。

すぐ西に町一番の大通りがあって商店が連なっていたが、問題は反対側のエリアである。

今にして思えばだが歓楽街というか飲み屋が林立していたのだ。当時のことゆえ、チェーン系の店など一軒としてなく、個人営業の居酒屋、バー、あるいはスナックばかりだ。その中に映画館が3館あった……洋画、東宝系、日活系が徒歩圏にあったのだ。

我が家へと入る、人と自転車程度しか通れない細い路地の途中にもバーらしきものがあり、夜になると有線放送の音楽が店内から我が家まで漏れ聞こえてきたのだった。

今の我が身であれば、鴨が葱しょって出汁を張った鍋に入っているような、そんな境遇に狂喜しただろうが、あいにくと未成年で東京に出てきてしまったから、暮らしていた当時は、何の興味も起きてはくれなかったのである。

実は……歓楽街で生まれ育ったということを如実に知ったのは、ここ20年足らずのことで、ネットで我がエリアが紹介されているようなページを見つけて読むと歓楽街であることがことさらに強調されていて、遅まきながら“そうだったのか”と改めて思い返したのだ。

《昭和のトピックス一覧》
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

懐話§昭和四十年代~屋上ビアガーデン~ [昭和]

[承前]

1960年代半ば過ぎ、実家から表通りに出た商店街にショッピングセンターができた。今見れば、スカスカな中身のセンターだが、それはそれ開店当初はけっこうな賑わいだったりしていた。

レストラン街の類はなかったと記憶しているが、1階のフードコートが呼び物で、当時としては珍しい持ち帰り寿司の店などもあったのだ。

もう一つの呼び物としてオープンしたのが、屋上ビアガーデンである。そんな“ハイカラ”な飲食施設などなかった町だったから、けっこうな評判にはなったようで、ひとしきりは商売繁盛していたのである。

おまけにあまり上手いとは言えない素人のエレキバンドが入っていて、屋上から演奏するものだから、町内中に響きまくっていて、今だったら騒音だと文句が出たのは間違いないが、なぜか、文句が出た節はない。

斜め真下の我が家からも、それはよく聞こえていたが、毎晩演奏する曲目が同じでしかなかったのは辛かった。

今でも記憶している曲としては、ローリングストーンズの『タイム・イズ・オン・マイ・サイド』が演奏されていたようだ。



ただ、演奏自体は稚拙そのもので、遠吠えを聞いているような、なにがなし侘しさも感じたりしていたのである。

当然ながら未成年だったので、一回も行くことなく、いつの間にかクローズしていたようだ。
                               [続く]

《昭和のトピックス一覧》
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

交話§つかず離れずな距離感~隣人と~ [昭和]

隣人との付き合いは薄い……今時のご近所事情である。

昭和の頃、町中にあった実家の日中は、玄関に鍵を掛けてなどはしておらずけっこう頻繁に知り合いが訪ねてきたり、何だかんだと行き来があった。

よく聞くことに、にわか雨が降ってきたので、留守している向かいのお宅の洗濯物を取り込んでおいたり、惣菜を作り過ぎたのでお裾分けするとか、調味料のやり取りとか、そんなことなどは珍しくなかったことである。

さすがに、昭和の時代よりは安全度が下がってしまったと感じられるがゆえに、マンションであれ一戸建てであれ、家に入ったらドアに鍵をかけるのも普通のことで、かつてのような、開放的な日本家屋のほうが、珍しい存在となってしまった。

たぶんおそらく、ご近所付き合いなるものは、昭和の後半には徐々に消滅していったのであろう。それ以降は、それぞれのプライバシーに配慮して……という時代がやって来て、外で隣人に出会えば、もちろん挨拶はするし、短い会話くらいはするけれど、とにかく“内と外”はきっちり分けて、それ以上は立ち入らないという暗黙の了解が出来上がってしまっているのである。

《日常のトピックス一覧》
タグ:生活 日常 昭和
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

懐話§昭和三十年代~肥溜め~ [昭和]

[承前]

“田舎の香水”という言葉が存在した……昭和三十年代、実家があった町から郊外に出ると、どこからともなく“あの臭い”が漂ってくるのだった。

そう、肥溜めである。かつては畑の肥料にと、農家の人たちが、町に赴いてきては、家庭の屎尿を集めては、それを掘っておいた穴に入れて保存していたのだ。

田舎を走る電車やバスに乗って、それらしき場所を通る時、必ずといっていいほど、あの臭いの洗礼を受けるのである。

肥溜めは野天掘りで柵の類などまず設置されてなどいないから、時折にしても、はまり込んでしまうおっちょこちょいが現れて、難儀していたようだ。

そんな田舎の香水も昭和四十年代には、徐々に消滅していったと思われる。そうなったのは、肥料の発達であったり、衛生上の問題で、下水道が設備されるようになったことで、屎尿集めはいつしか消えてしまったのである。
                               [続く]

《昭和のトピックス一覧》
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

懐話§昭和三十年代~ヴァキュームカー~ [昭和]

[承前]

地方の中規模都市の町中に住んでいたが、昭和三十年代まで下水道は完備していなかった。家庭の汚水は、家の裏の小さいどぶ川から、町内のどぶ川に注ぎ、一級河川へと流れていったのだ。

その当時、ほとんどすべての家のトイレには“ブツ”が溜められていて、月に一度くらいのローテーションでバキュームカーがやって吸い上げていくのだった。ただし、ヴァキュームカーが普及しても、我が家のあたりは東西を走る本通りから30mほども離れていたので、ホースが届かず、かなり後までブツを柄杓で汲んで木樽に入れて運んでいた……考えるまでもなく、衛生面では相当に遅れていたということか。

そんな環境とお別れしたのは昭和四十年代半ば、我が家でも下水道工事が行われて、同時にトイレの水洗化と相成ったのである。

実家のあった町は、郊外に向かって下水道が普及していって、徐々にではあるがヴァキュームカーの姿を見かけなくなっていった。

その後、上京して大学に入って2年生の時に住んだ板橋区の奥にあった下宿のトイレがぽっとんトイレで、大都市東京といえども少し外れれば、こんなものだと思ったのだ。
                               [続く]

《昭和のトピックス一覧》

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

週話§土曜有閑~昭和おやぢ発想そのまま~ [昭和]

某牛丼チェーンの常務取締役が、早稲田大学の社会人向け講座で、若い女性向け戦略を語るのに「生娘をシャブ漬け戦略」と、まあ驚くべき発言をして牛丼チェーンは即座に取締役を解任したというニュースは、一か月近く前のことで、記憶に新しい。

前世紀、あるいは昭和の御代であったら、他愛ない笑い話で片付いたかもしれないが、インターネットが縦横に張り巡らされた21世紀の今では、論外な女性蔑視発言として炎上したのは当然のことであろう。

加えるなら「男に高い飯を奢って貰えるようになれば、絶対に(牛丼など)食べない」とも発言をしているが、こちらのほうは、牛丼と牛丼を供している人たちをディスっているとしか思われず、天に唾吐く所業ではないか。

まさに“昭和おやぢ”の発想でしかなく、まだこんな発想しかできない人間が肩で風を切って歩いているのかと、背筋が寒くなってしまったのである。

そういえばD通の某名物プロデューサーが、東京オリンピックの開会式で、某人気女性タレントを使って“オリンピッグ”などという、恐るべき破廉恥アイデアを出して任を解かれたことを思い出すが、これもまったく同じ穴と思われる昭和の発想ではなかったか。

《日常のトピックス一覧》
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

懐話§昭和四十年代~ベルボトム~ [昭和]

[承前]

日本でジーンズがはかれるようになったのは、第二次世界大戦後に占領軍がもたらしたからであろう。

ただし、一気に“ブーム”的に広がっていったのは、1970年代のベルボトムジーンズからで、男女を問わず我も我もとはくようになったのだ。

そんなベルボトムを初めてはいたのは1972年、高校3年の時だった。あまり裾が広がり過ぎているのは遠慮して、ややおとなしめのどうってことのない何ちゃってベルボトムである。

その後、一浪を経て大学生の間は、ベルボトム全盛期とでも言える時代で、2本か3本をとっかえひっかえはいていたようだ。

そんなベルボトムの流行も10年ちょっとで終わりを迎えたが、これがきっかけとなり、日本でジーンズが日常着として定着していったのは間違いない。
                               [続く]

《昭和のトピックス一覧》
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

鞄話§通学かばんの前世紀今世紀 [昭和]

前世紀、通学かばんといえば、小学生だったらランドセル、中学から高校にかけては手提げの学生かばん、あるいは帆布製の肩掛けかばんなのだった。

↓大阪の学生かばんアトナ商会のHPから拝借
EwvUHKEUYAU550C.jpg

それがふと気がつくと、小学生のランドセルは変わることなく、中学生以上の学生かばんがほとんど消滅して、ボストンバッグ様の製品に替わっていたのである。

そうなった原因として、昭和終わり頃に“ヤンキー高校生”が学生かばんを極度に押しつぶして使っていたことがあり、それを防ごうとボストンバッグタイプを通学かばんに指定したということがあるようだ。

今、朝夕通学に行き来している中学生を見ると、ザックを背負っていたりする学校もあって、ある意味でずいぶんとカジュアルになったことを感じる。

振り返ってみれば、ランドセルも通学かばんも、時代だったからか、ずいぶんと生真面目な存在ではなかったかと思う。変わらないでいるとばかり思っていた通学のためのかばんも、いつの間にか大きく変化していたことに気づかされるのだ。

《昭和のトピックス一覧》
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

懐話§昭和三十年代~電気洗濯機~ [昭和]

[承前]

しかと理由はわからなかったけれど、実家は電気製品の導入が遅かった……経済的に豊かでなかったことは子ども心にもわかっていたが、それにしてもである。

テレビが入ったのは1962年、冷蔵庫は1967年、そうして洗濯機はといえば、1970年代になってからようやくだった。それぞれ、他の家庭より数年くらい遅かった。

その当時の洗濯機といえば、脱水まで行う全自動洗濯機はまだまだ普及しておらず、脱水は洗濯物を二つのローラーの間に挟んで水気を絞るのだった。実に単純な構造だが、それまで手で洗って手で絞っていたことを考えれば、大きな進歩だったのは間違いない。

そういうことが、どうやら我が実家には理解されていなかった節があって、70年代に入っても、洗濯といえば三軒長屋が共同で使っていた井戸場の端で大きなたらいを使って営々と洗濯を行っていたのである。

そうした機器にお金を掛けないことが美徳と思っていたのかどうかはわからないが、そうした空気を吸っていたがゆえに、早々に家から離れてやろうと決めたことは無理からぬことであろう。
                               [続く]

《昭和のトピックス一覧》
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

懐話§昭和三十年代~年始回り~ [昭和]

[承前]

実家で暮らしていた小学生の頃の正月。2日になると、父親が年始回りを始めるのだった。挨拶に伺うのは、親しい知り合い10軒ほどだったのではと記憶していて、荷物持ちに付き合わされることがあった。

持って行くのは毎年同じで、固形石鹸6個が化粧箱に入ったもの。持ち歩くのはたいした手間ではない。いそいそとついていくのは理由がある。

伺って、挨拶の一言でもすれば「ちょっと待って!」と先方がお年玉を渡してくれる。それが目当てで行くわけで、そんなこともなかったら行くはずもないのは言うまでもない。

60年近く前の話だから、普通は100円玉1枚、時折100円玉が2枚入っていると、心の中でガッツポーズをしていた。

そんな、日本における正月の“贈与”習慣が廃れたように思われるのだが、それはいつ頃くらいからのことだったか、高校生の頃(1970年代)には父親が年始回りに出かけなくなっていたような気がする。

そして東京に出てくれば、行き来するような知り合いもおらず、それゆえに年賀の品物を持って年始回りすることなど当然ながらすることなどもない。
                               [続く]

《昭和のトピックス一覧》
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

懐話§昭和三十年代~公益質店~ [昭和]

[承前]

何というか、子供心に貧乏だと感じさせられ続けた実家だったが、たぶんおそらく親が質屋に通っていたという記憶はない……子どもに知られないようひそかに通っていたかもしれないが。

小学校への通学路にも質屋が一軒あって、店の入口が見えないように設えられているので、人目をあまり気にせず入れるようになっていた。もちろん、質屋がそういうところなのだと知ったのは後年になってのことである。

そんな質屋だが、生まれ故郷の町には一軒の“公益質店”が存在していた。詳しいことはわからないが、市が経営母体となっていたのだ。他の質店より質草を高い値段で預かっていたのかは知らないが、入口の前には塀が伸びていて“プライバシー”には気を遣っていたようだ。

なぜ、公益質店なんてものがあるのかを知っていたのかというと、小学校の同級生の母親が質店を任されていたのである。シングルマザーだったので、そうした仕事はありがたいことだったに違いない。
                               [続く]

《昭和のトピックス一覧》
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

金話§ギザ十の人 [昭和]

1951年から1958年にかけて製造発行された10円玉の縁には、溝が彫られて、通称“ギザ十”と呼ばれている。

我々の世代はジャストのタイミングでギザ十の人たちなのだ。小学校低学年の子どもにしてみたら、小遣いにもらう十円玉が今の千円くらいに感じられたりもしたのだ。

たぶん一週間に10円か20円……50円というのは、もう少し後にあってのことだと思われて、その10円をいかに有効活用するかが切実な問題なのだった。

当時、駄菓子屋行けば5円くらいから商品があって、それが小袋に入った小豆の甘納豆だったり、ちょっと太めのストローに入ったゼリーだったりと、他愛のない菓子類だったが、家に用意されているおやつの菓子とは違って、自分で選択できることを楽しんでいたのだ。

時には一日か二日か買い食いを我慢して小銭を溜めると、駄菓子屋の一角に夏はかき氷、冬はもんじ焼きが開かれ、20円くらいのいちごかき氷やら、もんじ焼きの鉄板を囲んで、ちょっとした贅沢を満喫するのだった。そして、手には“ギザ十”が握りしめられていたのである。

《私事のトピックス一覧》
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

週話§日曜粛々~汲み取り便所~ [昭和]

実家があった町は、人口10万ちょぼちょぼの中規模ちょっと下くらいの都市だった。オンボロ同然の我が家はそこの町の中心部に建っていて、数十mも歩けばメインストリートに出ることができたのだ。

そんな立地にもかかわらず、1960年代終わりまで我が家のあたりに下水道が通じていなかった。昭和の頃の公共事業の進捗状況のゆえかどうかはわからないが、つまり我が家のあたりは、どのお宅も1960年代まで、ポットン式の“汲み取り便所”なのだった。

月に一回程度のタイミングでバキュームカーがやってきて、表通りから長いホースを引き込んで処理していってくれたのである。そんな長いホースなどなかった頃は、柄杓ですくって樽に集めていたのだが、おそらく近隣の農家の人たちが肥料用に集めていったと思われる。

そして、我が家のような町中の奥まった所まで下水が引かれたのは1970年のこと。引かれたところでようやく水洗便所の工事をしたのだ。

その後、東京で2軒目にお世話になった板橋は赤塚の下宿は、新しいお宅にもかかわらず、2階のトイレから1階まで一直線のポットン式で、まだまだ東京であっても下水事情などは地域差が大きかったのである。

《日常のトピックス一覧》
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

懐話§昭和三十年代~鼻水~ [昭和]

[承前]

真冬の空っ風の中で遊んでいた、小学生のガキ共はお約束のように鼻水を垂らしていた。最近は、そんな年代の少年たちが鼻水を垂らしていることなどなく、あれは我々の世代までのことなのだったのか。

元気に走り回っては鼻を垂らす。ハンカチや鼻紙など持っていないから、上着の袖で吹くなどは日常のことで、当然ながら家に帰れば親に叱られるのは当然なのだ。

冬の鼻水が“風物詩”でなくなったのはいつだったのだろう。1970年代には見かけなくなったような気がする。

あるいは、栄養事情がさらによくなったのか、清潔にすることが当然だという教えが徹底されてきたのか、少なくとも我々より数歳下のガキ共が鼻水を垂らしているのを見た記憶がない。
                               [続く]

《昭和のトピックス一覧》
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog