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忍話§父は従軍した [昭和]

昭和の年数と年齢が同じだった父は、第二次世界大戦の終戦2年ほど前に、召集令状を受け取り“陸軍”に応召した。18歳とかそんな年齢で、それまで行ったこともない大阪は枚方まで行かされたようだ。

そこでどんなことをしていたのか、詳細なことは聞いたことがない。自慢話をしばしばしていた人だから、話したければ自分のほうから話し出しただろうし、そうすればこちらからも聞きたいことが思いついたかもしれない。

枚方は大阪の府心からは少しばかり離れていたから、米軍の空襲に遭うこともなく過ごしていたと思われる。軍隊生活がどんなものだったかについてもまた知る由もない。

上等兵で終戦を迎え、二十歳になった秋には群馬まで復員できたようだ。幸いにして実戦に直面することもないまま、無傷で帰郷してきたわけで、これ以上の僥倖などなかっただろう。

戦後は手先が器用だったからか、そうした仕事に携わったが、なかなか腰が座ってくれず、しばしば職を変わることを余儀なくされて、本人にとっても不本意なことだっただろう。結婚して子どもが生まれても、勤めた会社が潰れたりして、ようよう定職につけたのは40歳になったばかりの頃。そこから定年退職するまで20年ちょっとを勤めあげた。

復員して以来、オンボロ長屋に61年もの間住み続け、亡くなったのは2006年11月のことである。

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タグ:昭和 私事 戦争
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過話§上京五十年~広い通りだとばかり~ [昭和]

地方小都市のど真ん中に暮らしていた。広い表通りから入った先の道は狭いものだが、半世紀以上前のことゆえ、まだまだ車の通行もさほど多いわけではなかった。

だが、小学生や中学生だった身にしてみれば、そんな道でも十分に広いのだという認識をしていたが、帰省するごとに実家付近の道の見た目がどんどん狭くなっていくように見えてしまうのである。

南北に並行して走っている2本の道があるのだが、そこは高校に通うのに自転車を飛ばしていった道で、車も行き交っていたいたはずだが、我が物顔で漕ぎまくっていたのだ。だが、その道は想像していた以上にずっとはるかに狭い道だったのだ。

そんな道が、それぞれ一方通行の狭い道だと気がついたのは、もう20年以上前のことで、それをグーグルのストリートビューで確認してみれば、車一台がやっと通れて、歩行者が肩身の狭い思いをするように道だったのである。

十代の視線と二十代以降の視線がどれほどの差異を生み出していたものか、しみじみと実感した道の風景なのだった。

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汲話§井戸在りしこと [昭和]

地方都市の本通りから入ったところの我が家及び両隣の長屋には、上水道も下水道も引かれてはいなかった。昭和三十年代までの地方都市におけるインフラ整備などは、その程度の進捗だったことがよくわかるというものだ。

それでどうしていたかといえば、3軒が共同で一つの井戸を使っていたのである。おおよそ昭和三十年代の終わり頃まで、井戸水による炊事洗濯その他諸々が行われていたのだった。ちなみにその当時、町内には数か所の井戸があって、それぞれ近隣の住人が管理利用していた。

今思えばずいぶん乱暴な話だが、保健所のような公的機関による水質検査など、一度として行われたことはなかったと記憶していて、よくもまあ腹を壊さなかったものだとは思う。

というわけで、井戸水の“産湯”を浸かった時から数えて10年、井戸水を飲み続けたのである。巷間言うとおりで“冬温かく、夏冷たい”井戸水がどれほど重宝したかといえば冷蔵庫のない我が家では、例えば夏場に西瓜やら胡瓜を冷やすのに使ったりしていた。

年に一度くらい、井戸の木蓋を開けて中を掃除していたのだが、上から覗くと真っ暗な空間が伸びていて、子ども心に怖かった記憶だ。

それにしても、そんな町中にあって、単に裏店だったから、上水道のラインから抜け落ちてしまっていたからなのか、ようやく自治体が気がついたのかどうか、各戸に上水道が引かれたのは東京オリンピックの年のことで、さらに遅れに遅れて下水道が引かれたのは、1970年のことである。

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懐話§昭和四十年代~個人情報じゃじゃ漏れ~ [昭和]

[承前]

昭和の御代……個人情報の保護などなかったというお話。

少年漫画週刊誌を読んでいたら、プロ野球選手についての紹介ページの中で人気選手たちの住所が紹介されていたのを読んだ記憶がある。現在は田園調布の豪邸に住んでいる往年の超有名人気選手が、世田谷区上北沢に住んでいると知ったのはその紹介ページからだった。

かくの如く、著名人であっても彼らの住所が雑誌の中で紹介されたりして、さぞやファンレターの類で郵便受けが溢れ返っていたことだろう。

そうして、そんな個人情報じゃじゃ漏れが終わりに近づいた頃のムック本を持っている。

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某音楽関連出版社が発行した日本の音楽家を網羅したもので、発行されたのは1960年代の終わり頃のことだったが、生年月日はおろか、住所から電話番号まで記載されていたことには、その当時でも驚いた記憶があって、これまた当事者はずいぶんと迷惑したのではないか。

ちなみに、ざっと見返してみたが、住所記載されていない、きちんと断ったような人は見当たらず、半世紀ちょっと前の個人情報の扱いとか認識の程度は、こんなものだったのかと、改めて驚かされたのだった。

ちなみに例として挙げたピアニストの野島稔は、掲載当時二十代半ばで新進気鋭、将来の日本のエースとして期待されていて、寸評もまたそうした空気を反映していた……昨年5月、76歳で逝去。
                               [続く]

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懐話§昭和三十年代~かき氷・・・・・・どう?~ [昭和]

[承前]

そういえば久しくかき氷など食べていない。最後に食べたのがいつだったか遠い昔過ぎて、まったく記憶にない。

そもそも我がガキの頃、かき氷などは駄菓子屋の領域で、駄菓子が並んでいる店の一角にテーブル一つに椅子3つ……冬になると文字焼きの鉄板が置かれたりする場所なのだが。

そこで、店のおばさんが手回しのかき氷器でシャキシャキと氷を削るのだ。そうして蜜はせいぜい3種類くらいしかない。赤いいちご、緑のメロン、そして白蜜である。で、かけてもらうのは決まって真っ赤なやつで、食べ終わると舌が真っ赤っ赤になるのもまたお約束だったのである。

今時のかき氷のようにこんもりうず高くというわけではなく、ちょいとこんもり程度で蜜も2杯くらいと慎ましやか。

だが、エアコンなどあるわけもない真夏の半露店で食べるかき氷ほどうまいものはない。エアコンが効いて、洒落た甘味の店で食べるかき氷を、あまりうまそうだとは感じない理由はそのあたりにありそうだ。
                               [続く]

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過話§上京五十年~トイレットペーパー~ [昭和]

代々木の三畳間で下宿生活を始めて、半年経ったところで起きたのが、あのトイレットペーパー騒動である。

10月に第四次中東戦争が勃発、そこでOPEC加盟産油国のうちペルシア湾岸の6ヶ国が原油価格を上げた。

そんな中、もちろん何の根拠もない“紙が不足する”という噂が流れ広がって、あっという間にトイレットペーパーが店頭から消えてしまったのだ。当時の下宿にテレビは置いておらず、ラジオのニュースで聞き知っていたはずだが、実感がなかったのは下宿の共同トイレにはペーパーが備え付けられていたのである。

それ以外にも物価の高騰は起きていたと思うが、乏しい仕送りの中で必死に安い食料品を求めてスーパーのハシゴをしていたので、辛うじて切り抜けられたのかもしれない。

その後、トイレットペーパーの不足は、翌1974年春頃まで続くことになったが、幸いにして大きな影響を被らずに済んだ。

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顧話§今日の歴史~川の流れのように~ [昭和]

1988年4月11日、美空ひばりの東京ドーム「不死鳥コンサート」開催。

1988年3月17日にオープンした東京ドームで、柿落としライブコンサートを行ったのが美空ひばりだった。

1985年頃から体調を崩し、徐々に悪化していった中の言わば“決死的”なコンサートが強行されたが、実際はとてもステージに立てるような状態などではなかったのだ。

そして一年余後、1989年6月24日に逝去。享年五十二である。

1989年、昭和天皇の死で昭和が終わった。1989年2月には手塚治虫が逝去、昭和に活躍した不世出の歌手と漫画家が相次いで逝ってしまった。

追記:美空ひばりのコンサート以前にも、ミック・ジャガーやBOØWYなどなどが、3月中にコンサートを行っている。

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懐話§昭和三十年代~傷痍軍人~ [昭和]

[承前]

小学生の頃、大きな縁日に行くと必ず見かけたのが“傷痍軍人”と呼ばれる人たちだった。四肢の何らかを失った2、3人で、ハーモニカを吹いたりしてお金を求めるのだった。

終戦の前年に応召した父は、彼らを見るたびに「傷痍軍人は軍人恩給を受けているはずだから」とお金を渡すようなことはせず、さらに「中には、ヤクザあたりが金を稼いでいて、居酒屋で酒を呑んでいるところを見た」などとも言っていたことを思い出す。

それが本当のことかどうか、1970年代に入ると傷痍軍人の姿を見ることはなくなったが、年齢を考えればまだ五十代くらいだったはずだから、白い衣装で街に出ていたと考えられなくもないが、気がつけば消滅していたのだ。

彼らが本物であれ偽であれ、子ども心に戦争の悲惨さを植え付けてくれたことだけは間違いない。
                               [続く]

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転話§電話のダイヤルやチャンネルを回す [昭和]

電話のダイヤルを回し、テレビのチャンネルを回していた時代があった。

電話のほうは、1970年代に入る頃“プッシュホン”がスタートしてテンキーを押す電話の先駆けとなり、1980年代にはダイヤル電話はほぼ駆逐されてしまったのである。

確か結婚した1982年の電話は黒いダイヤル式だったが、既にその頃から演奏会のチケットの電話予約が始まっていて、リダイヤルが必須アイテムであるがゆえに、プッシュホンに替えたのだ。

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それにしても、ずいぶん後になるまで長いこと、上のダイヤル式のアイコンが主流で使われていたのだったが、子どもたちや若い世代には何がなんだかわからなかったのではないか。

そして、テレビのチャンネルである。1960年代の頃には有線や超音波のリモコンはあったが、普及することはなく、改めてテレビのリモコンが一般的に普及しだしたのは2000年代前後ではなかったか。そこから地上デジタルのハイビジョンに繋がっていく。

今やテレビにリモコンは欠かせない存在で、かつての、いちいちテレビまでいってチャンネルをガチャガチャ回すようなことはすっかりなくなった。

電話のダイヤルやテレビのチャンネルを回すというのは、昭和世代の言葉でしかなく、もうとっくの昔に死語になっていたのである。

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週話§日曜有閑~1950年代生まれは既に~ [昭和]

気がつけば1950年代生まれの人間たちが、社会の表舞台から消えつつあるようだ。

もちろん、出世して役員だとか経営者に登り詰めた人たちは別だが、大多数の宮仕えの人間は、定年退職で会社から退いていっていると思われる。

ということは、社会の主流既に1960年代から70年代生まれに移行しているということか。自分たちがそういう位置にあったのは、もう20年も前のことになってしまった。

さらに、昭和生まれ最後の頃に大学を出て社会人となった人間も、定年という区切りが視野に入っているということに気がつく。

時は流れ……と書いてみると、アポリネールの『ミラボー橋』という詩を思い出す。堀口大學の訳で。

日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る

うーん“私は残る”ことはないなあ。間違いなく、時とともに流れていく。

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遊話§歓楽街で生まれ育ち [昭和]

関東平野北東端のしがない地方都市の実家で18歳まで暮らしていた。何かと便のいい町の中心部の、今にも倒れそうなおんぼろ借家に住んでいた。

すぐ西に町一番の大通りがあって商店が連なっていたが、問題は反対側のエリアである。

今にして思えばだが歓楽街というか飲み屋が林立していたのだ。当時のことゆえ、チェーン系の店など一軒としてなく、個人営業の居酒屋、バー、あるいはスナックばかりだ。その中に映画館が3館あった……洋画、東宝系、日活系が徒歩圏にあったのだ。

我が家へと入る、人と自転車程度しか通れない細い路地の途中にもバーらしきものがあり、夜になると有線放送の音楽が店内から我が家まで漏れ聞こえてきたのだった。

今の我が身であれば、鴨が葱しょって出汁を張った鍋に入っているような、そんな境遇に狂喜しただろうが、あいにくと未成年で東京に出てきてしまったから、暮らしていた当時は、何の興味も起きてはくれなかったのである。

実は……歓楽街で生まれ育ったということを如実に知ったのは、ここ20年足らずのことで、ネットで我がエリアが紹介されているようなページを見つけて読むと歓楽街であることがことさらに強調されていて、遅まきながら“そうだったのか”と改めて思い返したのだ。

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懐話§昭和四十年代~屋上ビアガーデン~ [昭和]

[承前]

1960年代半ば過ぎ、実家から表通りに出た商店街にショッピングセンターができた。今見れば、スカスカな中身のセンターだが、それはそれ開店当初はけっこうな賑わいだったりしていた。

レストラン街の類はなかったと記憶しているが、1階のフードコートが呼び物で、当時としては珍しい持ち帰り寿司の店などもあったのだ。

もう一つの呼び物としてオープンしたのが、屋上ビアガーデンである。そんな“ハイカラ”な飲食施設などなかった町だったから、けっこうな評判にはなったようで、ひとしきりは商売繁盛していたのである。

おまけにあまり上手いとは言えない素人のエレキバンドが入っていて、屋上から演奏するものだから、町内中に響きまくっていて、今だったら騒音だと文句が出たのは間違いないが、なぜか、文句が出た節はない。

斜め真下の我が家からも、それはよく聞こえていたが、毎晩演奏する曲目が同じでしかなかったのは辛かった。

今でも記憶している曲としては、ローリングストーンズの『タイム・イズ・オン・マイ・サイド』が演奏されていたようだ。



ただ、演奏自体は稚拙そのもので、遠吠えを聞いているような、なにがなし侘しさも感じたりしていたのである。

当然ながら未成年だったので、一回も行くことなく、いつの間にかクローズしていたようだ。
                               [続く]

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交話§つかず離れずな距離感~隣人と~ [昭和]

隣人との付き合いは薄い……今時のご近所事情である。

昭和の頃、町中にあった実家の日中は、玄関に鍵を掛けてなどはしておらずけっこう頻繁に知り合いが訪ねてきたり、何だかんだと行き来があった。

よく聞くことに、にわか雨が降ってきたので、留守している向かいのお宅の洗濯物を取り込んでおいたり、惣菜を作り過ぎたのでお裾分けするとか、調味料のやり取りとか、そんなことなどは珍しくなかったことである。

さすがに、昭和の時代よりは安全度が下がってしまったと感じられるがゆえに、マンションであれ一戸建てであれ、家に入ったらドアに鍵をかけるのも普通のことで、かつてのような、開放的な日本家屋のほうが、珍しい存在となってしまった。

たぶんおそらく、ご近所付き合いなるものは、昭和の後半には徐々に消滅していったのであろう。それ以降は、それぞれのプライバシーに配慮して……という時代がやって来て、外で隣人に出会えば、もちろん挨拶はするし、短い会話くらいはするけれど、とにかく“内と外”はきっちり分けて、それ以上は立ち入らないという暗黙の了解が出来上がってしまっているのである。

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タグ:生活 日常 昭和
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懐話§昭和三十年代~肥溜め~ [昭和]

[承前]

“田舎の香水”という言葉が存在した……昭和三十年代、実家があった町から郊外に出ると、どこからともなく“あの臭い”が漂ってくるのだった。

そう、肥溜めである。かつては畑の肥料にと、農家の人たちが、町に赴いてきては、家庭の屎尿を集めては、それを掘っておいた穴に入れて保存していたのだ。

田舎を走る電車やバスに乗って、それらしき場所を通る時、必ずといっていいほど、あの臭いの洗礼を受けるのである。

肥溜めは野天掘りで柵の類などまず設置されてなどいないから、時折にしても、はまり込んでしまうおっちょこちょいが現れて、難儀していたようだ。

そんな田舎の香水も昭和四十年代には、徐々に消滅していったと思われる。そうなったのは、肥料の発達であったり、衛生上の問題で、下水道が設備されるようになったことで、屎尿集めはいつしか消えてしまったのである。
                               [続く]

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懐話§昭和三十年代~ヴァキュームカー~ [昭和]

[承前]

地方の中規模都市の町中に住んでいたが、昭和三十年代まで下水道は完備していなかった。家庭の汚水は、家の裏の小さいどぶ川から、町内のどぶ川に注ぎ、一級河川へと流れていったのだ。

その当時、ほとんどすべての家のトイレには“ブツ”が溜められていて、月に一度くらいのローテーションでバキュームカーがやって吸い上げていくのだった。ただし、ヴァキュームカーが普及しても、我が家のあたりは東西を走る本通りから30mほども離れていたので、ホースが届かず、かなり後までブツを柄杓で汲んで木樽に入れて運んでいた……考えるまでもなく、衛生面では相当に遅れていたということか。

そんな環境とお別れしたのは昭和四十年代半ば、我が家でも下水道工事が行われて、同時にトイレの水洗化と相成ったのである。

実家のあった町は、郊外に向かって下水道が普及していって、徐々にではあるがヴァキュームカーの姿を見かけなくなっていった。

その後、上京して大学に入って2年生の時に住んだ板橋区の奥にあった下宿のトイレがぽっとんトイレで、大都市東京といえども少し外れれば、こんなものだと思ったのだ。
                               [続く]

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