測話§時計は時計として [海外旅行]
間違いなく20年は使い続けているトラベルクロックがあって、調べてみたらもう製造中止になってしまっていた。
文字盤が見やすく、日本とヨーロッパ、アメリカの電波を受信、それぞれの地域で使える便利ものである。
我々は年に一回の海外旅行だが、仕事で行き来する人にとってはありがたい製品だと思うのだが、それが消えてしまう理由は、スマホなどで簡単に現地時刻対応が可能になってしまったからではなかろうか。
どうも根が昔の人間であるようで“時計は時計として”存在していてほしいと考えてしまう類なのだが、そういう様を今時の人は、無駄なことをしているんじゃないのと感じてしまうかもしれない。見れば、昨今は腕時計を身につけていない人が少なくないことに気がつく。
だが、これはもう長年の習慣みたいなもので、時計は時計で使うということが、身体に沁み込んでしまっていて抜けないがゆえのことなのであろう。
というわけで、自宅にある腕時計以外の“純粋な時計”がいくつあるのかを数えてみたら、6個あった。壁掛けやデスクの置時計、目覚まし時計などなどだが、それ以外にパソコンなどの電子機器や携帯電話、電気製品などに付いている“時計”を加えたら、それだけでも2けたを超えてしまったのだ。
《海外旅行のトピックス一覧》
文字盤が見やすく、日本とヨーロッパ、アメリカの電波を受信、それぞれの地域で使える便利ものである。
我々は年に一回の海外旅行だが、仕事で行き来する人にとってはありがたい製品だと思うのだが、それが消えてしまう理由は、スマホなどで簡単に現地時刻対応が可能になってしまったからではなかろうか。
どうも根が昔の人間であるようで“時計は時計として”存在していてほしいと考えてしまう類なのだが、そういう様を今時の人は、無駄なことをしているんじゃないのと感じてしまうかもしれない。見れば、昨今は腕時計を身につけていない人が少なくないことに気がつく。
だが、これはもう長年の習慣みたいなもので、時計は時計で使うということが、身体に沁み込んでしまっていて抜けないがゆえのことなのであろう。
というわけで、自宅にある腕時計以外の“純粋な時計”がいくつあるのかを数えてみたら、6個あった。壁掛けやデスクの置時計、目覚まし時計などなどだが、それ以外にパソコンなどの電子機器や携帯電話、電気製品などに付いている“時計”を加えたら、それだけでも2けたを超えてしまったのだ。
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泥話§夏祭浪花鑑~勘九郎の団七~ [歌舞伎]
5月6日に開幕の予定だったが、緊急事態宣言発出で11日まで10公演が中止となったコクーン歌舞伎『夏祭浪花鑑』を観ることができた。
開演30分ほど前には席に着くと、既に幕は上がっていて、舞台は暗い……と思っているうち、ゆっくりと夜が明けていくことがわかった。鳥の声がかすかに聞こえていると、しばらくして蝉が鳴き出し、人々が舞台に集まっていくと、そこに神主がやって来て祭り初日の御祓いを、といったところから芝居がさり気なく始まる。これは前回、前々回とも違った演出である。
コロナ禍の下、演出には多くの制約に縛られ、役者が客席の通路を歩き回ることなどはできず、すべては舞台上で完結するのだった。
まずもって勘九郎の団七。父親勘三郎の代役として演じたのが10年前のことで、それ以来の舞台である。
ある意味“型破り”な役者だと自他ともに認めていた十八代目勘三郎の団七は、そうであっても歌舞伎の決め事をきちんと守って舞台を務めていたのに比べると、息子勘九郎は父親とは別の演じ方をしているように感じた。
ところどころで濃厚なリアルが滲み出ていて、それが芝居の核となって全体を支配していたのではないだろうか。それは義父殺しの場面で、ひときわな印象を与えてくれたのだ。
ではあるが、義平次を殺した後の虚脱と狂気の中、祭りで踊る人たちに紛れて姿を消す様子は、前々回や前回のように通路を使い、客席空間を祭りに仕立て上げていたのに比べれば物足りなくもなかったが、やむを得ない演出であったということだろう。
松也の徳兵衛とお辰の二役は奮闘もの。彌十郎から亀蔵に変わった釣船三婦は、少しばかり悪役面ではあるが、それが押しの強さともなって大当たり。
そんなわけで今回の公演は休憩なし2時間10分の上演だったが、スピーディな演出で緊張感が緩むことなく終わった。再上演する時には、また客席空間まで使って我々を巻き込んでほしいものである。
↓松竹によるダイジェスト映像あります
《歌舞伎のトピックス一覧》
開演30分ほど前には席に着くと、既に幕は上がっていて、舞台は暗い……と思っているうち、ゆっくりと夜が明けていくことがわかった。鳥の声がかすかに聞こえていると、しばらくして蝉が鳴き出し、人々が舞台に集まっていくと、そこに神主がやって来て祭り初日の御祓いを、といったところから芝居がさり気なく始まる。これは前回、前々回とも違った演出である。
コロナ禍の下、演出には多くの制約に縛られ、役者が客席の通路を歩き回ることなどはできず、すべては舞台上で完結するのだった。
まずもって勘九郎の団七。父親勘三郎の代役として演じたのが10年前のことで、それ以来の舞台である。
ある意味“型破り”な役者だと自他ともに認めていた十八代目勘三郎の団七は、そうであっても歌舞伎の決め事をきちんと守って舞台を務めていたのに比べると、息子勘九郎は父親とは別の演じ方をしているように感じた。
ところどころで濃厚なリアルが滲み出ていて、それが芝居の核となって全体を支配していたのではないだろうか。それは義父殺しの場面で、ひときわな印象を与えてくれたのだ。
ではあるが、義平次を殺した後の虚脱と狂気の中、祭りで踊る人たちに紛れて姿を消す様子は、前々回や前回のように通路を使い、客席空間を祭りに仕立て上げていたのに比べれば物足りなくもなかったが、やむを得ない演出であったということだろう。
松也の徳兵衛とお辰の二役は奮闘もの。彌十郎から亀蔵に変わった釣船三婦は、少しばかり悪役面ではあるが、それが押しの強さともなって大当たり。
そんなわけで今回の公演は休憩なし2時間10分の上演だったが、スピーディな演出で緊張感が緩むことなく終わった。再上演する時には、また客席空間まで使って我々を巻き込んでほしいものである。
↓松竹によるダイジェスト映像あります
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