歌話§赤い鳥とハイファイセット [フォークソング]
1960年代の終わり、フォークソング・ブームが始まるタイミングで、赤い鳥というフォークグループが結成された。
『翼をください』が大ヒットして、一気に人気グループとなった。平山泰代と新居潤子のツインヴォーカルの爽やかさが人気の源だったと思われる。赤い鳥の基本はフォルクローレで、それは西洋的なものというよりは、むしろ日本の古い俗謡のようなものをアレンジして聴かせるというものである。
だが、意外にも早く路線対立が生じて1974年にはグループが解散してしまったのだ。リーダーの後藤悦治郎と平山泰代は“紙ふうせん”というグループ名で赤い鳥の路線維持を目指した。
それ以上に驚いたのが、山本(新居)潤子、山本俊彦、大川茂の三人で結成した“ハイ・ファイ・セット”である。それまでのいささか湿っぽく感じられたフォークソング的なるものからの脱却を図って、都会的で洒落た“ニューミュージック”へと大胆な変身を遂げたのである。
音楽はもちろんスタイリッシュなファッションまで、トータル・コンセプトを考え出して構成してみせたのは誰だったのか。そこに、一つのグループを売り出すための周到なチームプレイを感じ取ったのだ。
彼らがハイ・ファイ・セットというグループでやりたかたのはこういう音楽だったのかと、最初から何となく釈然としない思いを抱き続けていたのは、ニューミュージックというジャンルを、どこか胡散臭い作り物めいていたと感じていたがゆえに、それほど共感できなかったからなのかもしれない。
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『翼をください』が大ヒットして、一気に人気グループとなった。平山泰代と新居潤子のツインヴォーカルの爽やかさが人気の源だったと思われる。赤い鳥の基本はフォルクローレで、それは西洋的なものというよりは、むしろ日本の古い俗謡のようなものをアレンジして聴かせるというものである。
だが、意外にも早く路線対立が生じて1974年にはグループが解散してしまったのだ。リーダーの後藤悦治郎と平山泰代は“紙ふうせん”というグループ名で赤い鳥の路線維持を目指した。
それ以上に驚いたのが、山本(新居)潤子、山本俊彦、大川茂の三人で結成した“ハイ・ファイ・セット”である。それまでのいささか湿っぽく感じられたフォークソング的なるものからの脱却を図って、都会的で洒落た“ニューミュージック”へと大胆な変身を遂げたのである。
音楽はもちろんスタイリッシュなファッションまで、トータル・コンセプトを考え出して構成してみせたのは誰だったのか。そこに、一つのグループを売り出すための周到なチームプレイを感じ取ったのだ。
彼らがハイ・ファイ・セットというグループでやりたかたのはこういう音楽だったのかと、最初から何となく釈然としない思いを抱き続けていたのは、ニューミュージックというジャンルを、どこか胡散臭い作り物めいていたと感じていたがゆえに、それほど共感できなかったからなのかもしれない。
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