勉話§奨学金を借りずに [教育]
大学に入ったのは、ちょうど半世紀前の1974年だった。多くの私立大学の初年度納付金(入学金+授業料一年分)が20万円を超えていた中にあって、入学した私大の初年度納付は15万6千円と、正直ほっとした。払ってくれる親への負担が少しでも軽減されたのではと……ちなみに当時の国立大学の初年度納付は9万円ほどだった。
親は貧乏国家公務員だったが、学費は払い続けてくれ、仕送りまでしてくれた。もちろん、ギリギリカツカツの額だったけれど。
そしてありがたいことに、奨学金を申請することなく、頼ることなく4年間過ごすことができたのもありがたいことだった。もっとも申請しても、成績など審査過程ではねられたかもしれない。
それにしてもと思うのは、昨今の大学の入学金、授業料の高さである。国立大学ですら、入学金28万円に授業料53万円だという。私立文系に至っては、入学金23万円+授業料82万円+αが必要で、初年度は軽く百万円を超えてしまう。
さらに昨今はパソコンも用意しなくてはならず、下宿であってもネット環境は必須となり、そうした諸費用もまた負担を重くしているようだ。
ある意味、我々が大学に通っていた時代は単純といえば単純な環境にあって経済的負担も少なくて済んだのではなかろうか。それにしても今時の学費の高さは何とかならないか……国力の低下はこうしたところからボディブローの如くに効いてくるのである。
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親は貧乏国家公務員だったが、学費は払い続けてくれ、仕送りまでしてくれた。もちろん、ギリギリカツカツの額だったけれど。
そしてありがたいことに、奨学金を申請することなく、頼ることなく4年間過ごすことができたのもありがたいことだった。もっとも申請しても、成績など審査過程ではねられたかもしれない。
それにしてもと思うのは、昨今の大学の入学金、授業料の高さである。国立大学ですら、入学金28万円に授業料53万円だという。私立文系に至っては、入学金23万円+授業料82万円+αが必要で、初年度は軽く百万円を超えてしまう。
さらに昨今はパソコンも用意しなくてはならず、下宿であってもネット環境は必須となり、そうした諸費用もまた負担を重くしているようだ。
ある意味、我々が大学に通っていた時代は単純といえば単純な環境にあって経済的負担も少なくて済んだのではなかろうか。それにしても今時の学費の高さは何とかならないか……国力の低下はこうしたところからボディブローの如くに効いてくるのである。
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啓話§ヨハネによる黙示録 [キリスト教]
プロテスタント系の保育園に通っていた流れから、高校くらいまで日曜日に教会に通っていた……信者にはならなかったが。
讃美歌とお祈りと牧師の説教という流れの中で、時に説教で飽きてくることが珍しくはなかった。その時、席に座って聖書を広げるのだが、何を読むかといえば、決まって“ヨハネによる黙示録”なのだった。
新約聖書の一番最後の章、しかも中身がおどろおどろしい終末論的内容で、ありとあらゆる災厄が降りかかり、人間とサタンが戦ったりするだけではなく、天使までが人間を殺してしまう……読み物としては滅茶苦茶で、刺激が強過ぎる中身なのだ。
それにしても、新約聖書がこんな“預言書”で終わるとはいかなることかと考えたが、そんな深遠なことなどわかるはずもない。
そして、数十年もわからないままほったらかしにしていたが、ふと思い出したのでネットで調べてみたら、あくまでも一説だが“ヨハネ”と称する作者が、痛み止めとして、麻薬でもある“苦よもぎ”を吸引したことで見ることになった“幻覚”をまとめた“文学”という位置付けが、解釈の主流の一つとしてあるらしいが、それにしても十代前半が読むようなものだったか……最後に、黙示録の中の印象的な言葉を掲げておく。
わたしはアルファであり、オメガである。
最初の者であり、最後の者である。
初めであり、終りである。
いつの御代にもラリってしまう人はいるのだ。
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讃美歌とお祈りと牧師の説教という流れの中で、時に説教で飽きてくることが珍しくはなかった。その時、席に座って聖書を広げるのだが、何を読むかといえば、決まって“ヨハネによる黙示録”なのだった。
新約聖書の一番最後の章、しかも中身がおどろおどろしい終末論的内容で、ありとあらゆる災厄が降りかかり、人間とサタンが戦ったりするだけではなく、天使までが人間を殺してしまう……読み物としては滅茶苦茶で、刺激が強過ぎる中身なのだ。
それにしても、新約聖書がこんな“預言書”で終わるとはいかなることかと考えたが、そんな深遠なことなどわかるはずもない。
そして、数十年もわからないままほったらかしにしていたが、ふと思い出したのでネットで調べてみたら、あくまでも一説だが“ヨハネ”と称する作者が、痛み止めとして、麻薬でもある“苦よもぎ”を吸引したことで見ることになった“幻覚”をまとめた“文学”という位置付けが、解釈の主流の一つとしてあるらしいが、それにしても十代前半が読むようなものだったか……最後に、黙示録の中の印象的な言葉を掲げておく。
わたしはアルファであり、オメガである。
最初の者であり、最後の者である。
初めであり、終りである。
いつの御代にもラリってしまう人はいるのだ。
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